さへずり草紙NEO

旧はてなダイアリーを引き継いでいます。

星子と南十字星(下)

 カモメの交わす声もかまびすしく、眩い朝日が窓からキャビンに丸い光を突き刺してゐました。
「ちよ、ちよつと!そんなに勢ひよく突き込んで、まさか本当に中に出すつもり?やめて頂戴!アヽッ」
「だつてモウ入れちやつてるんだから止めやうつたつて止まらないよ」
「イヤよ!ダメだわ!すぐ抜いて!」
「だつてもうすぐそこまで出かゝつてます。アッアッ」
「アーーーーー」
 星子さんは眉を寄せて、びくんびくんと躰を痙攣させながら、悲しい顔で全世界の全てを失つてしまつたやうな絶望的な声を出しました。僕は全てのものを注ぎ込んだ満足感で、ふう、とひと息つきました。星子さんがぽかぽかと僕の胸を叩きました。
「ちよつと!どうして呉れるのよう!こんな濃厚な…しかも泡立つくらい!責任とつて頂戴よう」
 泣きわめく星子さんに、僕は鼻白んで云ひながらカプチーノを啜りました。
「知らんね。星子さんが飲みこんだら済む話だ」
「この鬼畜!馬鹿!馬鹿!雪夫さんの正体が見へたわ!私を不幸のどん底に叩きこむ地獄の水先案内人なんでせう?」
「そんなことを言つてゐたらカプチーノが冷めますよ。だいたい、泡立てたクリームミルクをエスプレッソに注いでカプチーノにしろと言つたのは星子さんぢやないですか!」
「えゝゝゝゝ口惜しいつ。台詞で状況を説明するなんて素人のすることよ!」

 ノルマンディ号の朝は、いつも大騒ぎのうちに始まります。
「よくそれで同じ方向を見て歩んでゆきたいとか偉さうに云へたものね!」
 ぷんぷん怒る星子さんのしなやかな手を取ると僕は無言で薄い桃色のネグリヂェの彼女を、レディの着替へを見たがるなんて助平よ、人権蹂躙だわこの変態と喚くのも構はずアラヨ、アラヨ、と追い立てるやうに着替へさせ、無理矢理引つ張つて一等船室の扉を排してずんずん廊下を歩いてゆきました。
「ちよ、ちよ、何処へ連れて行くのよ!?私は貴方の所有物でもなんでもないんですからね!」
 僕は一等船室のある最上階から三階分階段をタタタタヽヽヽヽヽと星子さんを引きずりながら降りて、デッキの見張りの海員にチップを握らすと、ノルマンディ号の錨鎖が長々と延べてある舳先にまで星子さんを連れてゆきました。さうして、すらつとしなやかな星子さんのブルーグレーのジョーゼットドレスの身だしなみを整へると、手をつなぎました。さうして、彼女の瞳の奥まで通るほど星子さんを凝視めました。
「同じ方向を見やうぢやないか?」
 僕は星子さんを押し歩かせて、ノルマンディ号の舳先のいちばん先つちよに立たせました。さうして、其の背後から彼女を支へて、腕を水平に伸ばさせました。快速で海原をヨットのやうに走るノルマンディ号の潮風を正面から受けた星子さんは、袖や裾を風ではたはたとはためかせました。
「素敵だわ!私、斯ういふの、何故か知つてる!見たことがあるやうな気がするわ!」
「なんのことでせう?細かい事はいゝから今は楽しみませう」
 ノルマンディ号の舳先には結構な勢いの潮風が渡り、舳先のフランス・ラインの小旗がちぎれさうなほどはためいてゐます。水平線の彼方は黒く果てしなく続き、どこまでも深く高い蒼穹につながつてゐます。さうして水平線の向こうからはモクモクとアイスクリイムのやうな群雲が山と聳へてゐるのでした。
「素敵!凄いわ!凄いわ!私たち、希望を目の当たりにしながら進んでゐるのね!」
 船内のサロンからはバンドのテナーサックスが吹く「朝日の如く爽やかに」のソロが微かに聴こへてきます。まだ朝つぱらで潮風が冷たいうへ、風に乗つて滑空してきたカモメがこつん、と額にぶつかつたりなどして、僕はたちまち野外にゐるのが堪らなくなりました。
「モウそろそろ戻りませんか?」
「あら、つい今しがた来たばかりぢやない。船の舳先を楽しむんぢやないの?」
「ほさきをたのしむですつて?」
「モウッ。雪夫さんはすぐ混ぜつかへす」
 星子さんはブルーグレーの布をなびかせながら腕を組んで膨れつ面をしました。その胸元にはピンク色のチェーンに錨のヘッドがついた、マリン調のネックレスがキラキラと朝日に輝いてゐます。
「オーいゝよー。其の儘、其の儘。もつとアクション附けて」
 背後からイキナリ声がしたので吃驚して振り向くと、白人がディレクターチェアに腰掛けて、最新鋭のパルヴォ・カメラのクランクをゆつくりと滑らかに廻してゐました。
「ちよ、ちよつと、貴方は誰何ですか!断はりもなく撮つて失礼ぢやないですか」
 僕が喰つかゝると、男はチェアから立ち上がつて、つと歩み寄ると名刺を差し出してきました。
「デイヴィッド・セルズニックですつて?」
「だあれ?せんずりつて云つた?やだ!私せんずりなんて言つちやつた。」
  星子さんがのんきに首を伸ばしました。
「映画プロデューサーのセルズニックだよ。あの、キングコングを作つた人!」
「まあ!私この間キングコングと共演したわ」
「アレはパロディぢやないですか。本物のキングコングを作つた人だよ」
「まああ。ぢやあキング・コングつてやつぱり本当に居るのね」
「どうも話がやゝこしくなるなア」
 セルズニックは不可思議さうに僕たちのやりとりを聞いてゐましたが、いゝことを思ひついたといふやうに頭上に電球をぴかぴか光らせながら口を出しました。
「君たち、此処で嵌め撮りを撮らせてくれないかい?」
「其んなもの撮つて何うするンですか」
「上映するのさ」
「独りで観て楽しもうとでもいふのでせう?」
「全世界の配給網に乗せるに決まつてゐるぢやないか。メトロ・ゴールドウィン・メイヤーがいゝだらうか」
「頭が可笑しいんぢやないですか?僕はこのレディと付き合つてすらゐないんですよ」
「それは素敵だ。舳先のシーンから2時間以内にハメドリして最後に船が沈む悲劇に仕立てたらロマンティックぢやないか!」
タイタニック号ぢやあるまいし」
 星子さんが何を言はれたの?と訊いたので僕は星子さんの耳に手を当てゝ、何ういふ種類の映像を撮影したいのかをこと細かに説明しました。さうすると星子さんはマア!と開いた顔で発作的に僕の頬ぺたをピシャリと平手で叩きました。
「雪夫さんたら最低だわ!」
「と、撮りたいと云つてるのは僕ぢやなくてセルズニックさん…」
「そんな節操のない、陳腐でくだらない映画、当たる訳がないぢやない!」
 星子さんは図体のでかいセルズニックに向かふとけんけん捲くしたてました。
「私、雪夫さんなンか男としてすら見てないわ!下僕よッ私の言ふことなら何んでも聞く寺男みたいなものよ。この人は精神的に去勢されたとんでもない変態男よ。私のラヴの対象だなんて、ちやんちやら可笑しい。笑つちまうわ!第一私にだつて恋人て云ふものが…」
「私には雪夫君が其処まで非道く言はれるやうな木偶の坊には思へないのだがねえ」
「いゝへ!この虫けらつたら、虫けらの癖に私に色目使つてベタベタくつついてくるから気色が悪いつたら。はなつから眼中になんか無いのに!アウトオヴガンチューよ!」
 僕は星子さんに舌鋒鋭く言はれて身を竦めてゐましたが、その過酷な言葉を聞いてゐるうちに身体の奥から快感にも似た熱いものが湧き出して、頭がクラクラしてきました。
「雪夫君は其処まで貶しつけられて何ふも思はないのかね?」
 ゐたゝまれない様子でおたおたしたセルズニックに問いかけられて、僕はハッと我に帰りました。
「僕は星子さんの幸せだけが生き甲斐なんですよ。星子さんが飛び込めつて言ふならこの舳先から海に飛び込んだつて構はない。」
「其れは愛してゐるといふことではないのかい?」
「愛してゐますよ。星子さんは僕を何とも思つちやゐないですけどね」
「ぢやあ今スグ此処から海に飛び込んで頂戴。私、雪夫さんがどうなつたつてけらけら笑つてゐられることよ」
 僕はこの世の名残に星子さんの瞳に眸を当てると、さらばとひと言、手すりを軽々と飛び越へやうとしました。ところが、後ろから脚を捉へられて、僕はすつてんころりんと後ろざまに転げてしまひました。空がグルグル廻つてゐるのを不思議な思ひでボーと見つめてゐると、星子さんは泣きながらポカポカ僕を叩きました。
「此の世の事なんて何もかも茶番だわ。飛び込むなんて、もつと楽しまなきや損よ」
 僕は起き上がると星子さんを固く抱きすくめ、彼女の独活のやうにしなやかな躰が斜めにのけぞるのも構はず、深い口づけを無理矢理に奪ひました。陶然としたキスに身体は溶け合ひ、ひとつになるやうな感覚を覚へました。セルズニックがワオと小さく呟いてカメラのクランクを興奮気味に廻し始めました。
「アラ。撮つちやダメよ。」
 星子さんはセルズニックのカメラのレンズを手で塞いでしまひました。さうしてこつそり囁きました。
「この船の船倉には自動車が積んであるのよ。乗りにいかないこと?」


  一等船室のキャビンに蒼い月明かりが斜めに差し込んでゐました。甲板では航路の半分まで来たといふので、花火をボンボンと揚げてお祭りをしてゐます。その赤や青のきらめきがキャビンの丸窓を上から下に時おり横切つて降りました。
「あらあ、何んの騒ぎかしら」
 星子さんがまどろみながら生白い、魚の腹のやうな腕で目をこすりました。
「あれはフランスまで半分の処に辿り着いたといふお祝ひの祭ですよ」
 僕は手足を後ろで一つに束ねて縛られたまゝ床に転がつて答へました。
「そんなことよりそろそろ解いて呉れませんか?これぢやあ…」
「ダメよ、駄目駄目。雪夫さんは悪戯が過ぎるからさうしておかないと、私、自分てものが保てなくなるわ。さつきだつて危うく車から転げ落ちるところだつた!」
 星子さんはムクリと起き上がると、嗜虐的な感情がムラムラ沸いてきたのかキャビンの隅に乗り捨てゝあつたデッキゴルフ用のカートに乗つてブルンブルンとヱンヂンをかけました。彼女は舌なめずりしながら言ひ放ちました。
「サア狩りの始まりよ!逃げなきやあ此の車で轢かれつちまうわ!」
 僕は仰天して、水たまりに落ちた芋虫のやうに身を前後左右によじつて少しでも遠くへ逃げやうと試みました。しかし、頭を振る力が腰へ、反つた背中が足に作用して、いくらモガモガ藻掻いても元の場所から一尺と離れませんでした。「ホホホヽヽヽヽ」とから笑ふ星子さんのカートはキュルキュルと迫つて僕を轢くと、其の儘ドアを排して外へ出ていつて仕舞ひました。デッキにカートを置き去りにしたらしい星子さんが直ぐに戻つてきました。
「雪夫さんたら、逃げないから轢かれつちまつたぢやないの。詰まんないわ」
 僕はヒクヒクしたまゝ
「これぢやあ動けないンだもの。何ふして僕を轢きたいんですか?」
 と云ふのが精一杯でした。星子さんは深刻に腕を組んで悩むと、顔を挙げて空ろな声で呟きました。
「だつて雪夫さんを虐めると楽しいんですもの。」
 僕はギョッとして身を固くしました。
「また轢くンですか!?」
 「いゝへ今夜はモウいゝわ。そんなことより精神的にじわじわ苛める方が余程いゝのよ」
 さうして、グイと星子さんの眸が僕の顔に迫りました。
「雪夫さんを滅茶苦茶にして上げる!」
 得体のしれない快感が脊髄を走り、僕はゾクゾクしてしまひました。昂奮した星子さんは僕を後ろ手に縛り上げたまゝキャベツの皮でも剥くやうに僕の着てゐるシャツもセーラヅボンも鋏のちからを借りて八つ裂きにしてゆきました。さうしてさめざめと泣きながら
「ウソよ!私だつて本当は雪夫さんが好きで好きでタマラナイのよ!でも迷ひがあつたら雪夫さんを惑はす言葉なんて吐けないぢやないこと?だから故意と素つ気ない振りをしてるのよ!其のくらいお察しなさい!」
 と叫びました。星子さんは僕を丸裸にしてしまふと、鋏を開いて屹立した陰茎の根本に咬ませ、凄みのあるデーモニッシュな引きつり笑ひを浮かべました。さうして、子供が買つて欲しいものをねだるやうな上目遣いで甘つたれた声を出しました。
「ねヱ、ちよつとだけ…ホンの一寸でいゝから切らせて頂戴」
「だだゞゞゞ駄目ですよ!第一痛いぢやないですか!」
「大丈夫よ。ねえ、本当にホンの少し、二ミリ位でいヽんだから!」
「大丈夫な訳ないぢやないですか」
「一瞬で済むわ」
「やつぱりちよん切る積りでせう!」
「一寸だけ切つてみたら何うなるか興味があるだけよ」
「ウソでせう」
「本当よ!」
「さうやつて猟奇的な快楽に浸りたいだけでせう?」
「アラ雪夫さんもさういふ趣味なのね、ぢやあ話が早いわ」
「ぼ、僕は違ひます!たたた助けて!」
「面倒ね」
 星子さんは乱暴に僕にのしかゝると情欲の油を瞳にぎらぎらと流し、白魚のやうな指を僕の頸にからめて締め上げながら心地よさげに睫毛を合はせました。
「あゝいゝわ!うつとりしちまふ」
「ググググググ」
 首を絞められて息がつまる苦しさに僕の視界がぼやけました。両手を伸ばして苦しさうな憐れみの色を目に浮かべた星子さんの顔も二重三重にボヤけてきました。そのしなやかな肩から腕につながる線がいやにクッキリと鮮やかに目に入りました。さうしてひときは強く締めあげると、星子さんはブルブルッと身を震ひ、髪を散らすと天井を仰いで朗々と声をあげました。
「あゝ…イッちまつたわ!雪夫さん死んじまったかしら?モウ目を開けていゝことよ」
 首を締められてゐる最中、僕は異様な昂奮に包まれてツイ射精して仕舞ひました。さうしてぐつたりと気を失つてしまひました。意識が遠のくとき
「男の人が失神しながらとくとくザアメン流すのを見るのと余計昂奮するわ」
 と星子さんが陶然として言ふのを聞きました。
 目覚めると星子さんはキャビンの籐椅子でマティーニのグラスを傾けながら、暗い丸窓から満天の星を眺めてゐました。僕はまだ心臓がどきどきしてゐましたが、生きてゐる証に大あくびを一つしました。星子さんは薄物のしどけない姿でグラスを掲げたまゝ物憂げに振り向きました。彼女はグラスを手に立ち上がつて縛られたまゝの僕に屈みこむと、
「生きてゐたのね。これは御褒美よ」
 と優しく囁きながらグラスを乾し、マティーニを僕の口の中に流し込みながら口づけをしました。それから後ろ手の緊縛を解いて呉れました。
 僕は虎のやうに猛然と躯を翻して綿のやうに柔らかい星子さんを抱き伏せました。波濤のざわつきが心臓の鼓動のやうに響いて、夜の刻は永遠に続くかに思はれました。