さへずり草紙NEO

旧はてなダイアリーを引き継いでいます。

星子と南十字星(上)

 星子さんと僕はふたゝび船の人となつてゐました。アメリカから出航したノルマンディ号は轟々とたゞ一筋に欧州を目指してゐます。ノルマンディ号はツイ去年の一九三五年、フランス・ラインに就航したばかりの最新鋭豪華客船で、其の流線型のフォルムは如何にも速さうでした。舳先が波を蹴散らしながら疾走するさまは、流石キュナード・ラインのクヰーンメリー号と大西洋横断の最高速記録を競ふほどの勢ひに満ち満ちてゐます。
 水平線の彼方が茫漠とけぶる風景を僕は長い籐椅子に寝そべつてボーと眺めてゐました。水兵服を来たやうなカモメが何羽も頻繁に頬をかすめて、海員がバケツから放る小魚の掠奪を試みてゐます。白い翼がバサバサとまどろみを邪魔するのに辟易して防戦してゐると、ザブーンと派手な音がして、塩つぱい飛沫に見舞はれました。
 船の甲板に大きく場所を取つてゐるプールから海豹のやうに首を出してプカプカ浮いてゐる星子さんが楽しさうに大きく手を振つてゐました。
「雪夫さアヽヽん、あんたも泳いだらどう?気持ちいゝワ」
「あンなに気持ちよがつてゐたのにまだ気持よくなりたいのかい?」
「なんですつてー?」
 僕は乳首や海水パンツを執拗に突つくカモメを蹴飛ばすと、プールの端つこに腰をおろして揺れる波をチャプチャプと脚で弄びました。さうしてオレンヂのセパレーツ水着で身をくねらせて泳ぐ星子さんを興味ぷかく観察してゐました。
「其処まで来たんなら泳ぎなさいよ!」
「そんなに気持ちいゝのかい?僕は海のない処で生まれたからヨク分かんないんだ」
「泳いだら分かることよ」
 誘はれるまゝにプールのへりから波間に身を躍らせると、思ひのほか感触の柔はらかい海水と波間の泡が僕を包み込みました。星子さんにミニ戦車で轢かれた肩口がまだ痛いので平泳ぎにも苦心してゐると、星子さんが腰に手を突ゐて頬を膨らませました。
「雪夫さんはさうやつていつまでも私のせいにするのね!えゝ気持ちいゝでせうよ?」
 僕は水中で脚を攣りかけて波間に立ちました。
「違ひますよ。泳ごうつたつてなかなか体が元通りにならないんだから仕方ないぢやないですか」
 星子さんは哀れなものを見詰めるやうな同情の視線を僕に注ぎました。
「プールで泳げないなんてそれあ雪夫さんは可哀想よ、ノルマンディ号のプールなのに!」
 すると何の挨拶もなく滑らかな肌の黒いものがシュッと立ち昇つてきれいな円弧を描くと、盛大な飛沫をあげてプールに潜りました。星子さんは驚きと歓喜で瞳をキラキラさせて濡れた髪をかきあげました。
「マアヽッイルカだわ!」
 それは実際イルカの子供でした。海で群れて飛んだり潜つたりしてゐる連中より小ぶりで、青い水面の下を滑るやうに泳ぎまわつてゐます。プールに複雑な路線図でも描くやうに水中を駈け巡るイルカは、時々、僕の脚の間をすり抜けたり星子さんの脇腹を撫でたりして目にも止まらない速さで移動してゐました。 星子さんがニコニコ破顔しました。
「とつても面白いわ。地下鉄のやうね!可愛いイルカ。撫でたいわ、ネエ雪夫さんどうにかしてよ」
 僕はヨシきたと小ぶりなイルカを掴まへやうとプールに仁王立ちになつて、両手でイルカの通過を待ち構へましたが、ゴム引きの玩具のやうに濡れたイルカはいくら強く手をかけても易易と滑り抜けて行つてしまひます。
「駄目よ駄目よ、全身でアタックしないと!恋だつてさうでせう?」
「そんな無茶な」
 僕はエイヤと水着をかなぐり捨てゝ、イルカが突進してくるのを腰を据へて待ち構へました。
「なにも裸になれとは言つてないわ」
 星子さんはさう言ひながらも僕の傷だらけの躰を興味深さうにチラチラしげしげと凝視してゐました。しばらくすると案の定、イルカがスイスイと僕の股ぐらを潜らうと近づいてきました。しかしイルカは毎度のやうにスッとは泳ぎ去らず、僕の腰回りを遊弋すると、イキナリ陰茎をパクリと歯のない口で咥へこみました。僕は忽ち勃起してしまひました。
「ひえゝゝゝゝ」
 イルカは母イルカの乳でも飲むやうに巧みに唇と舌を使つたので、僕はまつたく不本意にも射精してしまひました。ガクガクと足腰を痙攣させながらイルカの口遣ひにイかされるまゝ立て続けに三回射精した僕は呆けた頭で波間に身を任せ、だらしなく漂ひました。さうしてたゞ眩い太陽をボーと見続けてゐたら、星子さんの「きやあアアヽヽヽヽ」といふ叫び声が鼓膜をつんざきました。
 僕は仰天のあまり其処が水上だといふのも忘れて振り向かうとして水中にのめり込み、危うく溺れさうになつた挙句やうやく水に立つて、小手をかざしました。
「ちよつとオオヽヽヽ此のエロイルカを何んとかして頂戴!」
 見れば先ほどの小憎らしいイルカが星子さんを下からチョコチョコと突つ突き上げて悪戯をしてゐます。星子さんは最初は抗つてゐましたが、いつの間にかトロンとした目になつて、眸に欲情の油が浮いてゐました。それを知つてか知らずか、イルカは長い鼻先で思ひ切りよく星子さんを掬ひあげると、其のまゝ彼女を背中に放り投げて、水面に叩きつけられた星子さんに乗りかゝりました。星子さんは我に帰りました。
「キャアアアアヽヽヽヽヽ」
「こりやあ本当にまづい」
 僕はあはてゝ超特急のクロールで泳ぎつけると、だらしなく長い陰茎を露出させていま正に落花狼藉に及ぼうとしてゐるイルカをポカポカ殴りつけ、蹴りあげました。猥褻な児イルカは濡れ雑巾のやうに宙を吹つ飛んでデッキサイドを滑り走ると、手すりでもんどり打つて海に落ちてゆきました。星子さんは両手を目に当てゝエーンエーンと泣いてゐました。
「私、あんな獣に犯されたわ!」
「え…アノ、あの……僕は、僕がなんとでも全て受け容れ」
「犯されたのは心よ!あんな可愛いイルカが!私を襲うと思つて?信じられないわつ」
「星子さんがそれだけ可愛いからですよ。魅力的だから誰だつて襲いたくもなりますよ。あのイルカが僕でも…」
 星子さんはギョッとして身を固くしました。
「マアアッ!矢張りさうじやないかさうじやないかとは思つてゐたけれど、雪夫さんもソンナ獣なのね!油断がならないわ!」
「ち、違ひますよ!ぼぼぼ僕は星子さんを慰め褒め褒め褒め」
「いゝへ、雪夫さんは私の躰だけが目当てなのよ。所詮はアノ種付け獣と変はらないのよ。綺麗事は云はないで頂戴!」
 さう言ひ放つと星子さんはオレンヂ色のセパレート水着の何処に隠してゐたのか、溶接に使ふ防火面を後ろから引つ張りだすと、かはいゝ顔にスッポリと被せてしまひました。
「モウ雪夫さんとは金輪際お友達付き合ひも無理ね。とても面と向かつてお話なんか出来ないわ!」
「そんなあ」
「さうなんですよ。ごきげんやう」
 すつかり冷たくなつて仕舞つた星子さんはくるりと踵を返してプールから上がらうとした拍子に、水中ですつてんころりんと転んで、きれいな脚を水面から突き出してぶくぶくと沈んでしまひました。が、すぐに体勢を立て直すと、髪をブルブルと振るつて両手で頭に撫で付けながら整へて、
「アラやだ。私そそつかしいからバナナの皮に滑つて転んでしまつたわ」
と言つてからからと笑ひました。僕が
「違ひますよ。星子さんが滑つて転んだのは僕のザアメンですよ」
と教へてあげると、彼女はマアッと目を見開いて絶句したまゝ、ふたゝびへたへたと水中に沈んでしまひました。


 うつとりと眸の帳をあげた星子さんは、「あら」と言ひました。僕は星子さんの重みと熱さを腕にずつしりと感じながら、デッキの籐椅子にそつと寝かせました。夏の夜に潮風に吹かれる星子さんの肌から揮発する女の匂ひが、僕の鼻を打ちました。満点の星は船を包むやうでした。
「あれ」
 星子さんの指す先には南十字星が瞬いてゐました。
「さう、あれがサザン・クロスだよ。」
「違ふわ。南十字星の下を飛行機が」
 たしかに薄い爪のやうな月の下、宝石箱をひつくり返したやうな星空にくつきりと存在を主張する南十字星のそばを飛行艇が一艘、音もなくゆつくりと飛んでゐました。
「あれはエールフランスの定期輸送便だよ。きつと。さうしてあの飛行機にはサン・テグジュベリが乗つてゐるかもしれない」
 星子さんはまだ目つきの定まらないうつとりした眸で僕を見上げます。それはあどけない幼い少女のやうに無垢な魂を感じさせました。
「サン・テグジュベリつてだれ?」
「詩人です。丁度いま位にエールフランスで定期便に乗つてゐるはずなんだれど…彼はとてもいゝ言葉を言つてゐるんだ」
「たとへば?」
「愛するとは、其れはお互ひに見つめ合ふことでなく、共に同じ方向を見つめることである、といふのが僕は好き」
「同じ方向を?」
「おなじ世界を夢見てゐるつていふことさ。星子さんはフラッパーでジャズって楽しく生きたいだらう?僕もさうだ」
「雪夫さんと同じ方向を見つめてゐるのかしら?私」
 僕は返事をせず、籐椅子で潮風に息づいて火照つた星子さんの唇に覆ひかぶさりました。星子さんは喉の奥で鳩のやうな声を立てゝ、くさびのやうに深く結ばれた口づけにはやがて海の潮の味が混じるのでした。