さへずり草紙NEO

旧はてなダイアリーを引き継いでいます。

摩天楼の星子 3

 四十二番街には本や映画で知つてゐるだけの有名な劇場が建ち並んでゐます。しかしお昼前のことですから、何処もまだ公演を打つてゐません。
「なあんだ。詰まんない」
星子さんはブロードウェイの舗道に仁王立ちになつてネオン灯の落ちた看板を眺めながら悔しさうに呟きました。まだ午前中とはいへ、ブロードウェイですから人の流れがあります。後ろから歩いてきた大柄な人が小さな星子さんにぶつかりました。さっぱりと謝つて歩み去る相手にゴメンなさい、と声を投げた星子さんは、人がぶつかつた拍子に頭から飛んだ髪飾りをキョロキョロと探しました。
 深い緑の瑪瑙で千鳥を象つた髪飾りは、思ひのほか遠く飛ばされて、劇場と劇場の間の路地の、下水溝にかぶさつた踏み板の上で光を反射してゐました。
「あつた!」
少女のやうに髪飾りに駆け寄つてしやがんだ星子さんは、拾つた拍子に路地の奥を覗き見て、アラと驚いた声をあげました。
「何ふしたんですか?」
「コンナ処にも劇場があつたのよ。しかもこんな時間にもう演つてるぢやない!」
「怪しいお店ぢやあないんですか」
「ちがふみたいよ」
 僕らはこはごは路地の奥に進みました。

それはまつたく、路地から外へネオン光が洩れないほど小さな劇場でした。
「サクセス•シアター…ですか。日本語で成功座ですね。」
「雪夫さんが云ふといやらしい響きになるわ。」
 シアターのファサードにはネオンと絵看板で出し物が大きく宣伝されてゐます。
「ブロードウェイ•スキャンダルス•オヴ•一九三六ですつて。何処かで聞いたやうなタイトルね。」
 入り口で三十セントの木戸銭を二人分払つて劇場に入ると、ちようどオケピからアンサンブルの整った楽団でイントロデュースミュージックがスヰングしてゐました。劇場は小ぶりながら八分の入りで、僕と星子さんは最前列の中央から右寄りの空席にようやく空席を見つけて座りました。すぐに目の前でスルスルと幕が上がりました。
舞台ではリアルに雑な格好をした大道具方や演出家、監督らしい人物と、いかにもな衣装に身を包んだ燕尾服や流行スーツ、現代的なドレスの男女が中央に集まつてあれやこれやと揉めてゐます。
「リアルな演出ね」
 星子さんが囁きました。しかし舞台の上の静かな喧騒は台詞を観客に聞かせるでもなく、地味に続いてゐます。
「あれは本当に揉めてるところね。お芝居ぢやなさゝうよ。それだつたら一度幕を下ろしても良さゝうなものなのに」
 眉をひそめて見てゐた星子さんは身を乗り出しました。舞台の上の人々は、やがて観客席をざつと見渡しはじめて何かを吟味してゐるやうでした。どうやら観客も斯ういふことは日常茶飯事なやうで、大して騒ぎもしません。
 そのとき、フト星子さんの肩を叩く者があります。星子さんが振り向くとそれは舞台の上に出張つてゐた裏方の格好をした男で、
「俳優のストで今日出る筈だつたヒロインが出なくなつた、こんな時は観客から適当に選ぶんだが今日に限つて女性客が少ないときた。そこで目に飛び込んだのが貴女だ。見ればオーラがある」
 などとまくし立てゝ星子さんを連れて行きました。幕はいつの間にか降りてゐました。
 星子さんは一体どこへ連れて行かれたのだらう、本当に大丈夫だらうか行かせなきやよかつたんぢやなからうか、などとモヤモヤ考へてゐると、先ほど聴いたスヰングの前奏曲と共に幕が上がりました。偽紳士がタップと色恋の手管だけを持つて都会に繰り出して高級ホテルで失敗をやらかしたシーンで遭遇するヒロインに僕は目を奪はれました。星子さんが身にぴつたりと沿つたチャイナドレスで出てきたからです。日本人の星子さんが選ばれたのは役柄の故だと思つてゐると、其処は矢張りミューヂカルで会話をするうち唄に入るのでした。なかなか代役がゐないのも無理はありません。

 〽私たちの仲良しの小ちやいチョングはオリエンタルが好き
  だから仕事が終わるといつも太鼓を叩いて 愉快な歌をいつでも歌う
  チョングは毎日太鼓を叩く 香港から
  チョングは歌う 面白くみんな歌つて毎日歌つて踊つて
  チョングは香港へ また帰へる友達とみんな手を取り輪になり
  ピチピチメリタンソン
  毎日歌って 聞かすだらう
      (チョング "Chong")

 古い流行歌をスヰングにして一くさり歌ふと客席から口笛と喝采が飛びました。日本の大人しい観劇風景とは丸で逆です。星子さんのヒロインは偽紳士のリードで如何にも上手さうに流線型のダンスを踊りました。さうして大都会で偽紳士から本物の紳士に脱皮してゆく男に密かに恋心を抱くのですが、彼の成功を邪魔しないやうにと姿を晦ますのです。
 クライマックスは、そんな健気な星子さんがエンパイヤ・ステイト・ビルの上で巨大な類人猿に拉致され、声を限りに泣き喚くところを今は紳士となつたヒーローがスーツをかなぐり捨て、空を飛ぶ正義の怪人となつて救うシーンです。
 星子さんは超人の胸に抱かれたとき、ふと恋しさを覚へますが、超人はスグに別れを告げていずこへか飛び去ります。
その直後に現はれた恋しい紳士に星子さんはついよろめいて抱かれますが、その胸の感触に超人の正体を知るのでした。星子さんは歌ひます。

  〽明るいシャンデリア かゞやく盃
   うるはしきジャズの音に 踊るはシャンハイリル
   今日はこの御方と
   明日はあの方と
   悩ましき姿は 私の上海リル

   いつでも朗らかにみせかける
   だけどリル お前は泣いてるよ
   涙をば隠して笑顔でむかえる
   可愛い可愛い 私のシャンハイリル
           (上海リル "Shanghai Lil")

 ステーヂは大成功でした。星子さんは楽屋を出てくる時は天竺鼠の襟巻きの附いたコートを誂へてもらつてゐました。さうして出演者やスタッフや観客にもみくちやにされながら劇場の外へ出ると、劇場に引き留めやうとする彼らに申し渡しました。
「私、本当を言ふと此処に留まらうか迷つてゐるワ。自分にはとても合つた生き方のやうに思へるもの。でも今は旅の途中よ、此の何んにも出来ない下男のやうな小男を放り出して行けやしないわ」
 さうしてローヒールの新品の靴でカツカツと舗道をもと来た道へ戻りました。星子さんは浮かない顔ですこし未練に苛まれてゐるやうでした。
「星子さん、そんなにいゝ処なら此処に居ればいゝのに!」
「さつき言つたぢやない。」
「僕だったら構はないよ。星子さんがしあはせになるなら不満なんぞあるものか」
 星子さんは僕に振り向いて優しい顔で言ひました。
「彼処にゐるとね、私、恋が幾つあつても足りないことよ。かりそめの恋と此のメトロポリスの空気と、自由気ままな旅の空とを換へやうつたつて換へられるもんですか!」
 僕は星子さんをすこし見直しました。
 ふと一丁足らず歩いてきた道を振り返ると、劇場と劇場は隙間なく繋がつてゐて、先ほどの路地など元から存在してゐなかつたかの如く、幻のやうに消へ失せてゐました。
「星子さん!」
 星子さんも茫然自失してゐました。
「あのまゝ彼処に留まつたら星子さんは何ふなつたことでせう?あれは一体…」
 星子さんは劇場支配人から貰つたコートや天竺鼠の首巻を確かめながら確信に満ちた口ぶりで言ひました。
「でも彼処で浴びた喝采は本物だつたことよ。この服や靴も。」
 僕には、あの劇場が、幸福を齎らされる者にのみ開かれる場所のやうに思はれました。星子さんも同じことを思つてゐたらしく
「成功座だつたわね。縁起がいゝわ」
 と呟きました。僕はすかさず返しました。
「演技もいゝのさ」

 お芝居を演じてゐるうちにギラギラの夕陽が中空を落ちる時間になつてゐました。グダグダと喋り通しながら、僕たちはウォール街まで歩いてきてゐました。星子さんが立ち止まりました。
「さうだ!せつかく紐育に来たんだからアレに昇りませうよ。」
 星子さんの指先にはエンパイア•ステイト•ビルが鈍く銀色に光り、夕陽を浴びてそれは燃へてゐるやうでした。
「コートは暑いわね」
 外套を脱ぎ去ると、星子さんは黒い絹のナイトドレスで、ハート型のルビーをつけたチョーカーを首に嵌めてゐました。
「すごく似合うよ」
 チョーカーに目のない僕は彼女に見惚れてしまひました。
「でせう?せっかくの摩天楼だからふんぱつしたつていゝぢやない。」
 夕暮れどきであるのにエンパイヤ・ステイト・ビルの入り口にはまだ行列が出来てゐます。五列も行列が並んでゐるうちの一列が二階のロビー行きで、其処で八十階行きのエレベータに乗り換へ、八十階から更にエスカレータで八十六階に昇ります。此処が野外に出られる第一展望台で、其処から更にエレベータで百二階に昇り詰めるとエンパイヤ・ステイト・ビルで最も高所にある第二展望台です。星子さんと僕も第二展望台まで昇つて、エレベータで百二階に直行しました。その第二展望室は細長いガラス窓でぐるりを囲まれた狭いホールになつてゐました。
「あら、外には出られないのネ」
「此処はビルの天辺だから窓から外を見られるだけなんですよ。」
「手を伸ばすとお星様が取れさうなくらい空に近いのに。…でも先達てのヒンデンブルク号なら届くかも知れないわね。」
「届かないと思ひます。」
 クリスタルのやうに磨きあげられたガラスに手をついて僕らは下界に目を遣りました。遠い地上には星屑をばら撒いたやうに無数の灯が見へます。その無数の灯は大気の悪戯で蝋燭の火のやうに揺らいで見へました。しかしガラス越しでは其れが紐育だと実感する程の夜景には到底思へませんでした。
「此処は夜景を見るには不適当だね」
「あンまり外が見へないんですもの。道理で人が餘り来ない筈だわ」
「ぢや、此処まで来る人は一体なにを求めて来るんだい?」
 星子さんは其の言葉で初めて気がついたやうに辺りをキョロキョロ見渡すと、ギョッとして身構へました。
「マアッ!雪夫さんたら私を騙してこんな処に連れ込んだのね!私、此処で何ふ料理されるの?判つたワ!獣のやうなヤンキイに大勢で襲はせるのね!雪夫さん見損なつたわ、一等最初の初めから私を陵辱する積りでコンナ猿芝居を組んだんでせう?」
 星子さんは自分の言葉でさらに昂奮してドームのガラス窓を後ろ手で探り探り、僕から離れやうと逃げを打ちました。僕は仰天してブンブン手を振りました。
「いゝへ違ひます違ひます!誤解です。そんな乱暴なこと、僕はしないこと、星子さんが一番よく知つてるぢやありませんか!」
「人は豹変するわ」
 僕は星子さんに誤解させた許しを得やうと両手を差し出してヨロヨロと星子さんに歩み寄らうとしました。と、床の絨毯に蹴躓いてよろけた挙句、星子さんの腰部に抱きつく形となりました。
「キャアアアヽヽヽヽヽ」
 星子さんは嫌悪感を露はにして僕の股ぐらを思ひ切り蹴りあげました。僕は悶絶してその場にしやがみこみました。
「そら御覧なさい。雪夫さんの中の獣性が頭をもたげたわ!この鬼畜!ド変態!」
 僕は悶絶しながらも、じわじわと云ひ知れぬ快感が心の奥底から沸き上がるのを覚へました。
「あゝさうです。も、もつと言つてください」
 星子さんはたじろぎました。
「雪夫さん、被虐趣味だつたのね!最低!」
「美脚フェチでもありますから星子さんに蹴られたときはいゝ思ひをさせてもら…」
 僕はふたゝび猛つた星子さんに蹴られて、ツイ勃起してしまひました。星子さんはモウ居ても立つてもいられない様子でヴァニティ・ケースから溶接用の防火面を取り出すと、すつぽりと顔に被せました。さうして長方形に嵌まつた黒いグラス越しに鼻息荒く言ひ放ちました。
「もう雪夫さんの顔を正視することなんか出来ませんわ!」
 その冷酷な言葉に、僕は腰を二三度グラインドさせて甘美の頂点に押し上げられました。星子さんは呆れたやうに仮面を仕舞ふと
「分かつたわよ。雪夫さんが悪かないのは分かつたから下に降りませう。本当に困つた人ねえ。」

 エスカレータで八十六階に降りてくると、其処はラウンジになつてゐて、エンパイヤ・ステイト・ビルの記念品や世界の高層ビルの写真などが飾つてあります。星子さんは写真を巡り観ながら独り言のやうに言ひました。
「このビルは飛行船の係留もできるンだつたわね。其のうち夕べ見たヒンデンブルク号の写真もこゝに飾られるかも知れないわね」
 このラウンジではしばしばジャズの演奏もされるやうで、柱の蔭からトリオのジャズが聴こへてきました。星子さんとあはてゝ現場へゆくと、それはテディ・ウィルソンのピアノとバニー・ベリガンのトラムペット、それから銀行員のような風貌のクラリネット、あのベニー・グッドマンでした。「うわあ!」僕達は歓声を挙げました。彼らは「スターダスト」や「ボディ・ヱンド・ソウル」などをジャズつてゐましたが、終ひに「三日月娘」のイントロを始めました。ラウンジに大きくとられた窓から、繊細な銀細工のやうな三日月がゆるやかに音を立てず上昇してゐます。星子さんは思はず歩を進めて、「鋪道の囁き」のベティ稲田が歌ひだすシーンのやうに自然に演奏に唄で加はりました。トリオも其れを当たり前のやうに受け入れてヴォーカルを盛り上げるやうに絡み合ひます。

 〽人目をしのぶ戀路の尽きぬ逢瀬に
  ほのかな今宵を君と語れば
  またも出る悲しい涙 胸が痛むよ
  なぜでせう?
  別れたら会えぬ貴方だもの

  せめては三日月 話すだけ
  二人の逢瀬も今宵をかぎりよ
  いとしい貴方の胸の中
  ほほえめ三日月、淡くとも
       (三日月娘 “Shine on Harvest Moon”)

 情感の豊かな唄ひぶりは紐育つ子にも伝はつたのでせう、トリオの周りに集つた人々は手に手に拍手をして、やがてほどけてゆきました。
「凄ひわね。カーネギー・ホールなら百万弗のトリオよ!」
 星子さんは昂奮も醒めやらない顔つきでした。
「あの三人お忍びで時々ここに来てジャズつてるさうよ。あ!サイン貰ふの忘れた!」
 バタバタと星子さんはさつきのトリオの処へ走つてゆきましたが、すぐにショボンと戻つてきました。
「逃げ足の早い連中だわ」
 僕は悔しさうな星子さんを野外の展望台に誘ひました。野外の展望台は外べりに柵があるくらいでだだつ広く、六月とは云へ三百数十米の高さに風はやゝ強めに吹いて、その肌寒さに人はまばらでした。
 星子さんとマンハッタンの下界を眺めると、クライスラア・ビルやトリニティ教会、マンハッタン銀行ビルが光の高層を競ひ、彼方のハドソン河がオレンヂ色に光るこちら側は無数のビルの窓が海ホタルのやうに、或ひはサンタクロースの袋から宝石を鷲掴みにしてバラ撒いたやうにキラキラした光芒が大気の加減でゆらゆらと息をしてゐるやうに揺らめいてゐます。その美しさに星子さんと僕はたゞたゞ息を飲むばかりでした。境界が曖昧な夜空のための首飾りのやうな三日月は、高くクライスラア・ビルの頭上にぶら下がつてゐます。
「月が綺麗ですね」
「私、モウ死んでもいゝわ」
 それはロマンティックの至高な時間でした。

 八十六階の野外展望台の端には望遠鏡が据へてありました。二セント入れゝば見られるやうになつてゐます。僕は早速お金を放り込んで覗いてみました。トリニティ教会の前庭に男が立つてゐます。その前に女性が座り込んでしきりに頭を前後させながら祈りを捧げてゐます。男は敬虔な女性の頭を撫でたり自分に押し付けたりしてゐましたが、最後に彼女に覆ひかぶさつて背中が二つある不思議な生き物になつてしまひました。
「面白い面白い」
「ちよつと。何見てるのヨ。私にも見せて頂戴。」
「レディには毒ですよ!」
 星子さんは憤つて柵の土台を伝つて望遠鏡の尖端に手をかけると、
「なら私はもつと高い処から夜景を楽しむから!」
 と、望遠鏡に跨つて、小手をかざして夜景に見入りました。僕は負けじと、望遠鏡で手当たり次第にビルの窓を覗いて回りました。

「やあマンションの部屋でカップルが激しいセックスをしてゐるのが見へますよ」
「ズルいわ!こゝからぢや見へないもの!」
「ぢやあ斯ふしたら判るでせう?」
 僕は悪戯心を発揮して、星子さんが乗つかつた望遠鏡を小刻みにゆすりました。
「ちよつと!そんな事をしたら気持ちよくなつちまふぢやないのさ!」
「クライスラア・ビルのオフィスで立つたまゝヤつてゐますよ」
「実況なんかしなくてもいゝわよ。あつ。」
「さつきのカップルが二回戦を始めました。お互いにねちねちと舐めあつてゐますよ」
「あゝ、そんないゝことを!あつあつ。イヤッ」
  怒り口調だつた星子さんの声音は和えやかに変化してゆきました。
「寝そべつてる男に女の人が跨つたよ。おつきいのが刺さつて…沈むやうに合体した!星子さんが跨つてる望遠鏡くらいあつたなあ」
「ンンッ…あああゝゝゝゝ、アーーーーーーーーーーッ」
 僕はグイッと星子さんの乗つた長い望遠鏡を持ち上げました。
 すると星子さんは高々と嬌声をあげながら望遠鏡を滑り落ちてきました。それがまた決定的な刺激を与へたのでせう。星子さんは僕の顔面にお尻をおつことすと、腰をがくがくと激しく前後に揺すりながら、こゝを前途と朗々とソプラノの声をあげ続けました。
 細い三日月は星子さんの笑みこぼれた眼にも似て、エンパイヤ・ステイト・ビルの天辺の電波塔に引掛かつてゐました。エクスタシイがとめどなく星空に吐き出されされながら、摩天楼は夜を深めてゆくのでした。