さへずり草紙NEO

旧はてなダイアリーを引き継いでいます。

星子の巴里祭(上)

1
赤と白と青染められた小さな提灯がいくつもいくつも道路の上に翩翻と揺れている巴里は、ちようど巴里祭でした。提灯の群れとはためく仏蘭西国旗は、水分を多めに含んだ濃紺の空にすばらしく良く映えました。
「巴里よ!自由の国だわ!」
星子さんは軽やかな真紅のワンピースの胸をふくらませて両手を目いっぱい広げると、大きく深呼吸しました。僕は馬に載せるほどの大荷物を引きずりながら、安堵の息をつきました。
「僕なんか、お日様を見るのは十日ぶりですよ!」
「それあ雪夫さんが悪いんだわ!ちよつと甘い顔をするとつけあがるからトランクに閉ぢこめなきやいけなくなるんぢやない!」
「とにかくこの開放感つたらたまんないよ」
星子さんは快活に巴里の街を歩きました。地図もなく、行き当たりばつたりの気楽な旅です。一行は、といつても星子さんと僕だけですが、煤けたモンマルトルのあたりに迷ひこみました。星子さんが指差しました。
「アラ!カフヱよっ本物のカフヱよ!」
街の門打ちに店を広げているのは、フランス帰りの画家や作家の随筆でも有名なル•セレクトでした。僕たちは嬉々としてテエブルを避けながら店の中に入つて、窓際に席を取りました。
歪んだガラス越しに巴里の街が濡れたやうに見へます。星子さんはシャンパンをふたつ頼んで、乾杯しました。
ふと奥のコンパートメントを見ると、一人で珈琲を啜つてゐるのはジャン•コクトーでした。僕はあはてゝボイを呼び、シャンパンをもう一つ
コクトーのために注文しました。コクトーは、シャンパンが来ると吃驚したやうに僕たちの方に振り向いてシニカルな笑顔を見せると、
「ありがたう。ちようど五月にお国へ行つてきたところだ。」
と云ひました。さうして僕たちのところへ席を移すと、日本での鮮烈な経験と印象を饒舌に、詩的な表現を混ぜて手ぶりも大きく語るのでした。
「その肌理の細かい白い肌に僕は頬ずりして、小さな節穴に唇を寄せて囁いたんだ、『君は美しい』と。」
星子さんは目を丸くしました。
「マアいやらしい!雪夫さんとどつこいどつこいだわ!いけすかない人。」
「違ひますよ、伊勢神宮の白木の門を愛でてきたのです。」
「!」
コクトーはカフヱの入り口に目をやつて誰か見つけたらしく手を振ると、瀟洒な身なりの男が賑やかにガヤガヤとやつてきました。
「こつちはロバート•キャパとアンリ•カルティエブレッソンといふ男だよ。失業したての写真家だ」
「失業したてのは余計だらう。こつちにゐるのは日本人かい?ジャン」
「あゝ巴里に来たばつかりなんださうだ。シャンパンを奢つてもらつたぜ」
「俺たちもシャンパンを貰つたら此の麗人のポオトレートを撮るんだがなア」
僕と星子さんは一も二もなくシャンパンを取りました。キャパは肩から提げてゐた鞄からカメラを引張りだして星子さんに向けました。
「あゝ、いゝよ。一寸ルルのやうだな、艶気がある」
「まあ!ボイさん、この方に熱々のグラティネを!」
キャパとブレッソンがポーズをとる星子さんにパチパチとカメラのシャッターを切つてゐるのを尻目に、コクトーが続けました。
「紹介がまだゞつた。こつちにゐるのはジャン•ポール•サルトルといふ奴だ。哲学家だつたよな?」
「そんな事はどうでもいゝ。俺が此処にゐるといふのが大事なんだ。」
コクトーは手を星子さんの耳に寄せて内緒さうに云ひました。
「こいつは鬱つぽいんだ。」
サルトルは僕の顔を見ると、同志を得たやうに嬉しさうな顔をしました。
「お前も何かに捕らえられてゐるな!」
「つい先ほどまで大トランクの中に」
「しかし自由といふのは却つて不自由なものだよ、ね、さうだね。」
「えゝまあ。」
星子さんは鬱々としたサルトルを憐れに思つたのか、またボイを呼ぶと
「こちらにもグラティネを頂戴。蟹や蛸をたつぷりと!」
蟹や蛸と聞くとサルトルは顔色をサッと変へ、キャッと叫ぶと頭を抱へて座り込んでしまひました。コクトーがゲラゲラ笑ひながら云ひました。
「アイツは甲殻アレルギーなんだよ」

夕方までシャンパンとトーストで話し込むだあと、星子さんと僕と一行はコクトーたちに誘はれました。
「僕らはこれからフォリーベルジュールへ遊びに行くんだけど、これも縁だ、一緒にどうだい?」
「もちろん喜んで!」
星子さんが胸の前で手を組んで、小躍りしました。
「私知つてるわ!エノケン二村定一が出てるんでせう?巴里でも有名なのね!」
「あれはカヂノ•フォーリーです。」
「似たやうなもんだよ。ジャズがあつて、笑ひがあつて、女の足、エロがあつて。」
コクトーが大柄な躯で僕たちをル•セレクトの出口に押し出しました。

2
フォーリー•ベルジュールは人でごつたがへしてゐました。舞台では既にワンサガールが脚を上げたり下げたり、けたゝましいジャズに合わせてゐます。
さうして巨大なイエローの孔雀の羽根を背負つて登場したのは、有名なジョセフィン•ベーカーでした。彼女はバイバイ•ブラックバードやダイナを奔放に歌ひ踊りました。
星子さんが歓声をあげて舞台のベーカーに手を振つたりおひねりを投げたりしました。さうして傍らで葉巻をくゆらせながら非合法の本物のアブサンを啜つてゐるコクトーに飛びつきました。
「私、歌手なのよ!私も此処で歌ひたいわ!」
コクトーやキャパや、いつの間にか膨れ上がつた取り巻きの仲間たちが、それは面白い!と沸き立ちました。一団は舞台裏にドヤドヤと詰めかけました。
歌ふ ベーカーを横目に見る舞台袖には、おかっぱの藤田嗣治がゐました。フジタは僕たちを見ると不可思議な顔をしましたが、コクトーブレッソンなどと一緒なのを見ると、破顔して迎へ入れました。
「ヤア斯ういふ登場をするといふことは、君らが雪夫さんと星子さんだね。ホラ、いまアメリカのジークフェルト•フォリーズにゐるジョセフィンベイカーがお忍びで此処に来てるんだ、運がいゝねえ」
フジタは超人的な理解力で百年の知己のやうに僕たちの肩と手を握りました。
「君のことは死んだマドレエヌから聞いたよ」
「星子さんに此処で歌はせてほしいんですが」
フジタは流石に眉間に皺を寄せて難しい顔をしましたが、奥向きの支配人室に入つて暫くすると、ニコニコして戻つてきました。
「好きなものを歌ひなさい」
キャアと叫んだ星子さんは飛び上がつてフジタに飛びつき、頬ペタに接吻をしました。
フランス人もジャズが大好きです。フォリー•ベルジュールの数人編成のジャズバンドが、ジャカジャカと沸騰するようなフォックストロットで弾みました。

楽しい日が来た 私の胸に
恋の花が咲いた 歓びが来た
心は踊るよ あなたと逢えば
いつも胸に春が訪れてるよ
夢にまで見る君が面影
楽しい日が来た 私の胸に
恋の花が咲いた 歓びが来た
(ハッピイデイズ "Happy Days")

フジタは星子さんが舞台で何曲か歌ふのを眺めながら
「雪夫君もステージで何かしたまへ」
とけしかけました。
「えッいやあ僕には何んにもできませんよ!」
「昔、浅草の大勝館だか何処かで面白いかなとをやつたぢやないか。僕はあの時は前の奥さんのユキと見て、手を叩いて笑つたんだぜ」
「何をしましたつけ?」
フジタはドテラ姿で手真似を混ぜながら剽軽に云ひました。
「ジャズバンドを伴奏にしてステージで射精したんだよ!」
赤面する僕を囲んでコクトー快哉を叫びました。
「素晴らしい!僕はそれを素描にするよ!」
キャパやサルトルもぜひやれやれと僕の肩をどやしつけ激励しました。顔色を明るくしたサルトルが云ひました。
「まさに生の営みではないか!」
「そんなことしたら星子さんに嫌はれます!」
「一瞬だからいゝぢやないか」
「ダメ!絶対!」
「だつたらおしつこでもいゝぜ」
「おしつこなら…」
「いいのか!?」
厭がる僕を、悪戯な連中が箒の柄で舞台へ押し出しました。
フォリー•ベルジュール満杯の客がさざめきながら星子さんの歌に聴き惚れてゐるところへ新顔が飛び出したので、哄笑が席のあちらこちらから起こりました。
僕は腹を決めて星子さんの背後でゴソゴソと用意すると、噴水のやうなジャズバンドのシンバルに合はせて小水をしました。
それは舞台のライトに照らされてキラキラと輝きながら客席に飛び込んでゆきました。客席は蜂の巣を突ついたやうな騒ぎになりました。
円弧を宙に描いて放たれる黄金水を浴びた前列の客は、アブサンかそれとも何か強烈な麻薬でもやつてゐたのか、舞台の雰囲気に呑まれきつたのか、体いつぱい嬉しさを満開にして小水を浴び、歓声を挙げました。満杯の客が立ち上がつて拍手をしたり、ヒスを飛ばしたり、喝采を寄越したりしました。星子さんは青ざめた顔色で舞台を退けました。
調子に乗つた僕は、ライトに照らし出されてカーブを描く玉が静止しているやうに見へる小水を左右に振り撒きました。騒ぎは一層おおきくなり、僕は引つ掛け棒で舞台袖に引き戻されました。フジタやキャパやサルトルが腹を抱へて馬鹿笑ひをしながら
「狂つてる」
と、僕を指差しながら云ひました。
星子さんは憮然としてそそくさと赤いワンピースから溶接用の防火面を出すと、すつぽり顔に被せてしまひました。
「前から危ない危ないとは思つてゐたけれど、雪夫さんがそんなに危険人物だとは思つてなかつたわ!とても顔なんか直に見られません!」
星子さんはそれから一週間、口を利いてくれませんでした。