さへずり草紙NEO

旧はてなダイアリーを引き継いでいます。

「パンピネオの戀心」

 赤くけぶつた大きな月が、松屋デパートの上にぽっかり浮かんでいました。
 窓から入る月の光があんまり眩しいので、僕は支那更紗のカアテンをシャーと閉めて、劇団の雑用に草臥れた体を、給仕室の汚い畳にゴロンと横たへました。僕は二村定一さんの処を追ひ出されてから、ルルの手引きでピエルブリヤントといふ劇団で小僧をして、一日中こき使はれてゐたのです。
 遠くから、さゞなみのやうにピエルブリヤントの明日の芝居の練習が聞こへてきます。僕は、斯んな怠けてゐるところをヱノケン先生に見つかつたら危険だと思ひ直し、給仕室の扉に鍵をかけて、寝直しました。
 さうしてうつらうつらしてゐたら、胸にズッシリと重みを感じて体が動かなくなつてしまひました。僕はいつもの金縛りが来たのかしら、と思つて息を詰めました。さうしたら、圧倒するような低いバスの声が頬を撫でたので、飛び上がるほど吃驚しました。
「やい雪夫の小僧。貴様、ルル嬢さまにひつ付き過ぎぢやあないか。嬢様に手を出したら頭から喰つちまふから、さう思へ」
 おそるおそる薄目を開けたら、虎のパンピネオが太い腕で胸に重くのしかゝつてゐましたので、僕は二度震へました。
「パヽヽヽヽパンピネオ、お前、口が利けるんですか」
 僕は虎を怒らせてはまずいと思ひ、珍妙な口調になつて訊きました。
「口が利ける処ぢやあない、唄だつて歌へるし夜中になつたら人間に変はることだつて出来る。いや、元々人間だつたのが仔細があつて虎に変へられてゐるだけだよ。あゝ、だから貴様がルル様に仲良くしてゐるのを見ると、ひと思ひに噛み殺して遣りたいんだ。」
 僕は困つてしまひました。
「僕を噛み殺したりなんかしたらルルはきつとお前を怒つてボルネオに売り飛ばしてしまふさ」
「フヽヽヽサア、それは何うかな。まあ背中に乗れよ。貴様をルル様の言ひ付けで連れてかなきやあいけない。貴様が俺の背中に乗るだけで虫酸が走るんだがな」
 パンピネオは僕の肩口を軽く咥へると自分の背中に器用に放り投げました。さうして、カアテンを翻へして月の光に飛び込みました。
 どれだけ走つたのか、其んなに走つていないのか、パンピネオはハアハア言ひながら空を駆け地を滑つて、いつの間にか深閑とした駅のホームに着いてゐました。天井から下がつている丸い電気時計がカチッと八時四十二分を差しました。
「おかしいな」
 僕は不思議に思ひました。
 夜の九時にもなつていないのなら電車がまだ走つている筈ですし、ホームも混雑している筈です。ホームは無人でした。さうしてタイル張りの駅名表示には新橋驛と記してありました。東京地下鉄道の新橋駅なら開通して以来、僕も何度も乗りましたが、此んなホームは知りません。


「ホヽヽヽヽヽ。不思議でせう。此処はまだ存在しない駅なのよ」
 ポッカリと暗い口を開いているトンネルの暗がりから、断髪のよく揃った切先をかすかに踊らせながらルルが現はれました。ルルは、今日は黒いシンプルなワンピースに黒い髪留めをした、ハイブラウな格好をしてゐます。僕は意味が判りませんでした。
「何ういふことですか」
「もうすこし、イヱあと数年したらこゝから渋谷まで地下鉄がつながるわ。でも、そのときに使はれる駅は雪夫さんの知つてゐる新橋駅なの。つまり此の駅は電車なんか通りつこない、無駄に作られた駅なのよ。」
 それで駅が深閑としている理由が判りました。
「でもルルさんはどうして此の駅のことを」
 さう訊きかけたとき、ルルはなんとも言へない、切ない眉をして茶色い瞳を潤ませました。さうして両手を差し伸べました。僕は、心に花が咲いたやうに嬉しくなりました。咽喉をからからにして、何う言はうか思案してルルを見つめてゐましたら、風を切つて僕のうしろから、すらりとした長身の男が進み出て、ルルを抱きしめました。
「あゝリキーさん来てくだすつたのね」
 僕はふたゝび訳が判らなくなりました。
 リキーと呼ばれた大柄な男が振り返へつて僕を見下げました。目元に幼さを残した爽やかな、いゝ男です。僕は、ずつと前、白金台のお屋敷で奥様の代はりに此のリキー宮川といふ男にポカポカ殴られたことを思ひ出して、目を丸くしました。
「あ!あの時の!」
「俺はパンピネオさ。手つ取り早く言はう。俺は白金台の奥様に振られたあとルルといゝ仲になつたんだ。だが、横恋慕した岡田時彦が死ぬ前に呪ひをかけやがつてね。昼間は虎になつちまふんだ。ルルと斯ふしてゐられるのは夜だけ―――。マア其の呪いもそろそろ解けるんだがね。」
「だつてリキーは上海のマヌヱラとも宜しくやつてゐるぢやないか。いや。いやいやいや確かマヌヱラと結婚したんぢやなかつたつけ?この性悪男。ルルを騙して…」
「黙れ。それ以上云ふな」
 リキーは牙を剥いて轟々と吼えました。まだ虎の部分が残つているやうです。
 僕は怖はくなつて首をすくめたまゝ黙りました。リキーは華奢なルルを折れさうに抱きしめてゐました。人間に化けたといふのにうつかり尻尾を垂らして、その尻尾の先がユラユラと揺れています。ルルはといふと、溶けさうに陶然としてリキーに身を委ねてゐます。
「妾はいゝわ。リキーがパンピネオでも…マア素的だわ。パンピネオだつたら尚更嬉しいわ。だつて貴方なら何処へでも夢のやうに連れて行つてくれるんだもの。」
「ルルさんは恣んなお惚気を僕に見せたくて、パンピネラに僕を連れて来させたんですか。」
 僕は地団駄を踏みました。
「あんまりぢやありませんか。虎ですよ。猫の親玉なんかに負けるなんて厭だあ。わああ。」
 僕はリキーをはったと睨みつけて、わなゝく指先で指しました。
「け、け、けだもの!」
 リキーはゆつくりと振り向きました。さうして猫がするやうに頬ぺたを片方だけ吊り上げて笑ふと、目を光らせて
「さうだよ。俺はけだものさ」
 と云つてルルにかぶさりました。
「えゝさうよ。リキーはけだもの!とても激しいの。」
 ルルの指先がひくひくと痙攣して、だらんと垂れてしまひました。それはまさしく官能の表現に違ひありませんでした。
 ホームに這ひつくばつて白線の塗料を猛烈に爪で剥がしながら僕は泣き喚きました。ルルは放心してリキーに抱かれたまま、艶やかな紅唇を動かしました。
「あら。雪夫さんも大事な友達よ。其れでいゝぢやない」
 僕はふやけた頭のなかで、其れでもいゝやうな気になりました。


 そのとき、暗いトンネルの彼方からかすかな轟音が伝はつてきました。ルルは名残惜しさうにリキーから身をひつぺがすと、ホームからすこし身を乗り出し、トンネルの音のする方を覗き込みながらワクワクした声で云ひました。
「さあ来たわ。雪夫さんをこの電車に乗せるために、妾ちよつと骨を折つちやつたのよ」
 僕はホームの三和土にぺたんとお尻をつけて両手をついたまゝ、放心した頭でイヤイヤをしました。
「だつて此処には電車は通らないんぢやないんですか。可笑しいぢやないですか。使はれる筈のない駅に電車が来るなんて、ルルさんの魔法ぢやないでせうね。」
 ルルは失敗つた、といふ表情をしましたが、すぐにからからと笑ひました。
「其んなことは無いわ。これから来るのは雪夫さんを夢の世界に連れてつて呉れる電車よ。」
 ルルは鼻先が僕の鼻先にくつ付きさうなくらい顔を近づけ、僕の目の奥底を覗き込むやうにして、真面目なやうな冗談のやうな調子で囁きました。
「いゝこと。本当の世界よりも、本当のやうにつくり込んだ世界のほうが、よほど本当なのよ」
 警笛をプアーンと鳴らしながら地下鉄の車両がホームに滑り込みました。運転席には制服を着込んで制帽をかぶつた雉虎猫が神妙に座つてゐました。

 僕ははしゃぐルルに押し込まれるまゝ、おそるおそるドアを排して客室に這入りました。客車の中身は特急つばめ等がさうであるやうに、二人掛けのふんわりした椅子が進行方向に沿つて向かひ合はせになつています。
 その席の一つに身を沈めると、ルルがコツコツと硝子窓を外から敲きました。頻りに口をぱくぱくさせて何か喋つたり笑つたりしてゐますが、丸で聞こへません。時おりリキーと頬ぺたをくつつけていちやいちやするのが気がゝりで苛々とするのですが、硝子の向かふなので何うしやうもありません。それで意地を張つて目を瞑むつたまゝ足だけで地団駄を踏むでゐると、スルスルと列車が動き始めました。
 さうすると僕は急にルルが名残惜しくなつて、意地を張つてゐたのも忘れて冷たい硝子窓にぴつたりと頬ぺたをくつつけて、ルルを追ひました。ルルはリキーと抱擁して白い背中と首筋が見へるばかりで、電車を見送りもしないで接吻に夢中になつてゐるらしく思はれました。さうして漆黒なマルセル式の頭とドレスから先に闇に溶けてゆきました。
 窓から車内に振りかへると、いま見送つたばかりのルルが目の前に向かひあつて座つてゐました。僕は顎が外れるかと思ひました。
「ホヽヽヽ、吃驚したでせう。妾、あなたの頭の中のルルよ。本物よりも余程聞き分けがいゝわ。」
 さう言つてからちよつと首を捻りました。
「でもそれはルルと旅することになるのかしら?」
 かすかな風に乗つて、ルルの肌から脂粉のいゝ香りがしました。ルルさへ居たらたゞ黙つてゐてもいゝやうに思へました。実際なにも云へなかつたのです。僕は、すこし眉を寄せたルルの悲しさうな瞳をボーと見ていました。


 そのあと何処を何うやつてめぐつたのか、丸で分かりません。さうして気がつくと、元の給仕室に大の字になつて寝ていました。寝入る前と同じやうに赤く大きな月が窓にかたぶいていました。
 次の日会つたルルは
「アーラ、新橋にそんな駅があることなんて知らなくてヨ。今度連れていつて貰はうかしら。パンピネオが喋つたら、其れは面白さうねえ」
 と言ふて、可笑しさうにカラカラと笑ふばかりでした。