さへずり草紙NEO

旧はてなダイアリーを引き継いでいます。

「金絲鳥のルル」

奥様のお屋敷を飛び出した僕は、二村定一さんに誘はれるまゝに、田島町の二村さんの下宿に転がり込むことになりました。ルルは電気館の楽屋で二村さんに
「べーちやんせんせ、この子よろしくね」
 と云つて僕を引き渡しながら、紅い唇を舌でちよつと舐めてニヤニヤ笑ひ、
「べーちやんに預けておけば安心だわ」
 と独り言のやうに云ひました。僕はルルと離れる詰らなさと、其の不穏さうな言葉に耳を欹てました。
「何ういふことですか」
「あ、い、いえ何んでもないことよ。こはされないやうに気をつけるのね、ホホホヽヽ」
 二村さんは、手を振るルル子を振り向き振り向きする僕の手を引きながら
「いゝお尻してるねヱ。」
 と、ツルリとお尻を撫でたりしました。僕はスターに褒められてすこし嬉しくなりました。
「ありがたうございます」
 田島町の二階建ちの下宿の部屋に入つてドアーを閉めると、二村さんはいきなり僕を壁ぎはに押さへつけ、くつきりした大きい目でジッと僕を見つめて、
「雪夫君はおれを好ゐてゝこゝに来たんでせう? ねえさうでせう?」
 と云ひだしました。僕は仰天してもがきながら、両肩を押さへつけてゐる二村さんの手を撥ねのけました。大ぶりに振つた手がべーちやんの大きい鼻に当たりました。
「僕は其んな気ないんです。ルルさんがべーちやん先生の所に泊まれつて云ふから…」
「さう…雪夫さんはさうなんですね」
 二村さんは馬のやうな目を潤ませて、奥に引つ込んでしまひました。其の晩、僕は奥様のお付の特高からくすねて持つてゐた南部式拳銃を二丁と手榴弾を枕元に置ゐて、平和に眠りました。其れでも二村さんは何うして不思議を行なつたのか、起きたら精を漏らして洋跨をぬらしてゐたので、心地悪い朝を迎へました。

 二村さんは昼間は常盤座のレヴユーに出てゐるさうなので、昼間は近所の支那料理屋からワンタンのランチとオーギヨウチーとコカ・コオラを取り寄せました。小ぶりな鉢の柳麺をすゝつてゐたら、扉を排して慶大の制服を着た恰幅のいゝお兄さんが這入つてきて、
「貴様か新しいラバーといふのは」
 と怒鳴つたかと思ふと、僕の胸倉を掴むで壁に向かつて投げつけました。僕は仔猫のやうに窮と鳴ゐて、緑色の壁土を頭から被つて失神しました。お兄さんはさらにコカ・コオラを凄い勢いで振ると、僕の顔に向けて発泡した液体をぶつ掛けました。冷たい発泡水に吃驚して目を醒ました僕は、ブルブルと粘ばい茶色の液体を振り飛ばして、それを否定しました。
「こにやろ。べーちやんは僕のものだからな」
 僕は朧げながらお兄さんの素性が分かつたので
「誤解です誤解です。僕は二村さんのお稚児さんなんかぢやありません」
 と叫びました。お兄さんはなほさら怒りだして、
「稚児だとつ」
 と叫ぶや否や、熱いワンタンや焼き飯の載つた卓袱台を蹴つ飛ばして向かつて来たので、僕は二階の窓から飛び出して、庇を転げ落ちて土埃の立つ往来を跣のまゝ、まろび逃げました。
 浅草の興行街を、後を向き向きアタフタと逃げてゐましたら思ひきり洋装のオフイスガールにぶつかりました。「ガツデム」と謝つて其のまゝへつぴり腰で逃げやうとしましたら、オフィスガールに頸根つ子を掴まれて、クルリと回転させられました。
「雪夫さんお見限りだわ。ガツデムだなんて不可ないわよ」
 流行りのリボンをつけた帽子を横ちよ被りにしたオフイスガールは、ルルでした。僕は赤くなつてしまひました。
「おほかたべーちやんの情夫に殴られてきたんでせう」
「ルルさんは一体どうしてゐらつしやるんですか」
「ホヽいつもは尾張町のビルで和文タイプ打つてゐるんだけれど、用事で浅草に来たらこのざまさ。上手く世間を渡つてゐるでせう?」
「僕には遠くから見ただけでスグ分かりましたよ」
「嘘おつしやい。どうせ仕事も終はつたからお蕎麦でもおごつて頂戴」


 藪蕎麦で笊蕎麦と杉樽の酒を腹におさめてから、オフイスガールのルル子と僕は手を繋ゐで六区まで歩きました。公園劇場の裏手に、派手にネオンをかゝげた変装屋があります。ルルは「チヨツト待つてゝね」と云ふとその変装屋に飛び込みました。さうして五分もしない内にまた飛び出してきました。
「こゝにいつも自前の服をあづけてゐるのよ」
 僕は目を丸くしました。出てきたときのルルは、メアリー・ピックフオードやグレタ・ガルボも斯くやといふ輝かしい姿をしてゐました。
「不可ませんわ雪夫さん。ピツクフオードもガルボも古いぢやありませんか」
 ルルは、シルク地に銀色の鱗が隙間なく縫ひ付けられた、パツと眩いばかりのワンピースをを身にまとつてゐました。やはり銀鱗のルウズなベルトが腰骨に引つ掛かつてゐました。さうして袖なしの肩口からすらりと美しい二の腕が伸びて、季節柄、クリーム色の紗のかゝつた日傘をさしてゐました。日傘のやはらかい日差しにつゝまれたルルは、白魚のように身をくねらせて、両手を腰に突っぱねました。白い胸元にキラキラ銀色に光る控えめな装身具もルルらしく、赤い唇をちよつとへの字に曲げて怒つたお顔までが、僕にはとても美しく見へたのです。
「嘘です嘘です。ルル子さんは丸でカナリヤ殺人事件のブルックスです」
「マア」
 松井須磨子のやつたカチューシャのやうな、洒落た髪留めに抑へられた切り髪が、フハリと舞ひました。さうして頬ぺたにやはらかい唇の感触を覚へましたので、僕は上気して仕舞ひました。


「チョット待つた。雪夫君を渡して貰はうじやあないか」
 振り向くと、グスンと泣きさうな二村さんが立つてゐました。丁度ステージが終はつたところなのか、桂小五郎の扮装で、抜き身の刀をひつ提げてゐました。
「あら。べーちやん先生、コンナ下らないおとこなら幾らでも上げてよ。」
 ルルは僕を二村さんに向けて突き飛ばしました。僕は土埃に倒れこみ、土を舐めて泣きました。
「ぬう」
 二村さんはおつとり刀であはてゝ僕に駆け寄り
「大丈夫かい」
 と芝居がかつた口調で僕を抱き起しました。起き上がる拍子に僕は、二村さんの袴に手を突つ込んで掴んでしまひました。二村さんはみるみる大きくなつてしまひました。
「キヤアヽヽヽヽ」
 ルルは真赤になつてのけぞると手をお顔の前にかざし、半分こはいもの見たさもあるのか、その眼は指と指の間から二村さんの大きくなつて袴から飛び出してしまつた物に釘付けになつたまゝ、後づさりしました。
「あんなの挿れたら本当に壊はれちやう」
 其れを聞ゐた僕は身の危険を感じてバタバタともがきました。すると、その抵抗がいけなかつたのか、二村さんは目の色を変へて
「いけねえ。ばたばた騒ぐんじやねえ、云ふ通りにするンだ」
 と云ふと、竹光の刀をぐりぐり僕のお腹に当てながら、公園の公衆便所に僕を引きこみました。あたりの浮浪者はそれを見ながら何うとも思つてゐない様子で、ベンチに思ひ思ひに寝そべつたまゝです。ルルがキラキラとした残像を残して走り去るのが視界に入りましたが、二村さんは無理やり僕の頸根つ子を掴むと顔をねじ向け、脂粉の香りのムツと漂う顔を近づけました。
「いゝかい、美味しい口づけは斯うやつてするのが一番なんだ。人に言つちやあダメだよ」
 僕は目を白黒させながら唇を吸はれ、口の中を舌で掻き回はされて、魂から抜けつちまひさうになりました。さうしてトロンとなつて、もう二村さんに身を委ねやうといふ気にさへなつた処に、ピーーー、といふ鋭い警笛の音がしました。
「オイコラ。此処はさういふ事をする所ぢやあない。見れば何処かで見たことのあるお侍さんじやあないか」
 二村さんは警官に肩口を掴まれてゐました。僕は、残念なやうなホツとしたやうな、複雑な心地でした。


 二村さんが警官に何か名刺を渡しながら連れてゆかれたあとから、キラキラ光るルルがぜいぜいと荒い息をつきながら駆けてきました。ルルは、くの字に曲げた膝に両手を突ゐてしばらくゼイゼイ云つてゐましたが、息も収まらぬ内に、汗で額にボツブの髪をへばりつかせたまゝ朗らかに云ひました。
「あたし、象潟署まで力いつぱい、走つたのよ、褒めて頂戴つ。籠から抜けたカナリヤでもキット戻つてくるの、大好きな人のところへ」
「ルルさん。僕は先つきから」
 僕は感動してヨロヨロと立ち上がりました。さうして、半勃起してゐるのを見咎められて、眉をしかめたルルにビーズの固いバッグでしこたま叩かれました。
「イヤよ。勘違ひされちや困るワヨ」
 彼女はツンと美しい鼻を尖らせました。僕は其のバッグで反対にルルの汗ばんだ腕を手繰り寄せると、二村さんに教はつた方法で荒々しくルルの口を奪ひました。ルルは獅子に捕へられた羚羊のやうに悲壮なあらがひを見せました。
「アラマアッ雪夫さん。ンムヽヽ」
 蒼みのかつた白目をおほきく見せて、ルルの縋るやうな眸が僕の目と絡み合ひました。太刀魚のやうに美しい身体からスツと力が抜けて、白い腕がだらりと垂れ下がりました。腕に嵌つた銀の腕輪が触れてチャリンチャリンと鳴りました。僕は獣のやうな情熱で、柔はらかいルルの体を抱きしめました。
 その瞬間、何処からか駆けてきた虎のパンピネオにガオウと組み敷かれた僕は、軽く前足で頭をはたかれて、気を失つてしまひました。