さへずり草紙NEO

旧はてなダイアリーを引き継いでいます。

「ルルの誕生會」

  1
 ヱノケン先生が映画を撮るといふので、僕は小道具を沢山持たされて、沢山のワンサガールと一緒にトラックで砧のPCLスタヂオに運ばれました。スタヂオにはカフヱーの装置が組まれてゐて、綺麗な千川輝美さんやベーちやん先生や女給の役の女優共が、リハーサルといふものをしてゐました。
 僕は自分も映画に出して貰へないかと思ひ、PCLのバッヂをつけた背広の人の袖を捕まへて
「君。君。僕もヱノケン一座の人間だからフヰルムに出して呉れ給へ。誰か、さうだ、あの二階のキャメラマンにでもさう云つてくれないか」
 と云ひつけながら、手に一円札をくしやくしやと丸め込みました。
「なんだとッ。君は何かね。出て行き給へッ」
 ちょうど通りがかつた、脚にゲートルを巻ゐた照明係が鳥打帽を取つてヘイコラして
「これはこれは所長様。けふはまた態々、撮影をご視察になつてお疲れ様なことでげす」
 と挨拶したので、僕は腰を抜かしてしまひました。其処を後ろからヱノケン先生に蹴飛ばされて、
「ヤイヤイヤイ邪魔だい邪魔だい。てめいは撮影が終はるまで外でブラブラしてきやがれ」
 と追ひ立てられました。

 僕はヱノケン先生の後姿に中指を立てて見送り、スタヂオから明るい野外に歩き出しました。ところが忽ちドシンと何者かに打衝かつたので「ガッデム」と叫んで勢ひよく振り返つたら、思ひがけず立つてゐたのは、目の覚めるやうなオレンヂ色のデイ・ドレスに包まれた流線形のルル子でした。
「マァ。雪夫さん相変はらず乱暴だこと。此のドレスどうかしら?日本橋三越から届いたのヨ。巴里仕立てですつて!知らないデザイナーだけれどいいでせう?デヰオールとかいふやうな名前の人よ」
「目が覚めるやうです。」
「ホヽヽヽヽ、雪夫さんたら何時でも寝惚けてゐさうですもの。いゝお薬ですわ」
 その儘、麻の日傘をさしたルルとPCL倉庫の並びを歩いて、本社ビルの螺旋階段をのぼつて屋上のベンチで風に当たりました。鈍い銀色のポールにPCLの旗が威勢よくはためいてゐました。ルルの頸に巻きついてゐるクリイム色のマフラーも飛ぶやうに風に舞ふのを、彼女は目を細めて手で抑へてゐました。
「けふはルルさんは何のご用で此処にいらしたのですか」
「あーら。雪夫さんはお忘れかしら。けふは妾の誕生日だことよ。其れでお祝ひにヱノケンさんから撮影の見学に招待されたの」
「ヱッ」
 僕は吃驚して三、四寸ばかりベンチから飛び上がり、お尻をしたゝか混凝土に打ち付けました。
「えゝさうよ。其れでパンピネオのリキーからはこんないゝドレスを貰つたの。虎だのに三千円もいつたい何うしたのかしら」
 僕はポケットに手を突つこんで、さつき植村所長からもぎ取つてきたクシャクシャの一円札を中で揉み散らかしました。恥ずかしさと口惜しさで頭が沸騰した僕は、
「ぼぼぼぼぼ、ちよちよちよちよ」
 とルルに云ひ置くと螺旋階段を早回しで駆け下り、守衛室に飛び込んで偽の警察手帳で守衛を黙らせると、ジーコジーコと電話をせはしなく廻はしました。
「モシモシ高松宮殿下ですか。あゝ執事の。アノ僕、白金台の…えゝ昔のよしみがあれば是非」
 電話を終はつた僕は意気揚々と屋上にあがり、ルルの手をつないで螺旋階段を舞ひ下りました。ちようどスタヂオで寸劇の撮影が終はつた処らしく、役者や劇団の幹部連中が外にぞろぞろと出てきました。僕は劇団の人気ナンバア・ワンの宏川光子をルルの話し相手に押しつけておいて、幹部連が吹かしてゐるタバコの煙幕に突撃しました。
「やあさっきは悪かつたなあ小僧。」
 ヱノケン先生は上機嫌でした。
「でしたら相談に乗つてください」
 僕はヱノケン先生や如月寛太や二村先生と雁首を揃へて話しこみました。
「何んだか面白さうぢやないですか。僕も一枚噛みませう」
 黒澤といふ名札をつけた助監督が粗末な帽子の上から頭を掻くと、腕まくりして愉快さうに身を乗り出しました。


  2
「雪夫さん何処に行つてゐたのかしら。妾ずいぶん探したことよ」
 ルルはすこしお冠でした。
「ごめんなさい。僕、劇団の連中とヘル談やつてゐたんです」
「まあ。」
「ルルさんはルドルフ・ヴァレンチノが映画の中で勃起してゐるのを御存じですか。」
「イヤだわッ。雪夫さんいやらしいんですもの」
 ルルはそれまで僕と組んでゐた腕をほどくと、日傘の下に僕を入れて、上目遣ひに睨みつけました。
「いつたい妾を何処に連れてくの?モウ五分ばかり歩いてるぢやない」
「大丈夫です。来れば分かりますよ」
 僕はすたすたとアスファルトの歩道を歩いて、大倉庫の巨大扉をすこし開けると、中に滑り込みました。ルルも這入りました。中は真暗でした。
「ホラ御覧なさい。雪夫さんなんかパンピネオに云ひつけて食つて貰ふんだから。誰か助けて頂戴。妾、雪夫さんにどうかされちまうわ」
 ルルがかんかんに怒り出したのと時を同じくして、パッと周りが眩く輝きました。倉庫の二階吹き抜け廊下の四方から、強烈な照明が降つてゐるのでした。
 倉庫には立食パアティーが煌びやかに設へられてあり、帝国ホテルのボイがチェリーの沈んだピンク色のアペリティフをルルに差し出しました。パーティーには江戸川乱歩先生や山田耕筰先生、すでに酒に酔つて男優数人に絡んでゐる澤蘭子さんなどがゐました。色気づいた平井英子さんが色気づいた突貫小僧とパーティーの片隅でリキュールを舐めながらいちやいちやしてゐました。もちろんヱノケン劇団の役者たちも慣れないタキシードでうろうろしてゐました。その間を縫つて精養軒やニューグランドや帝国ホテルのボイが滑るやうに動き廻はり、カチャカチャと食器の触れ合ふ音とおいしさうな料理の匂ひがあたりに満ちました。
「ルルさんお一つ如何ですか」
 さう云つて、野球選手のスタルヒンが紳士らしい態度で御料豚のカツレツが挟まつた部厚いサンドウィッチを差し出しました。彼に誰かぶつかつてお詫びを言つたので顔を見たら、新聞で知つてゐるアメリカ駐日大使のグルー氏でした。ルルは呟きました。
「夢のやうだわ」
「左様。夢です。雪夫君がちよいとした手品を使つたンである。」
 徳川無声がちびちびと灘の生酒を啜りながら厳かに言ひました。

 急場に拵へられたセットの幕があがり、乙に澄ました紙恭輔の指揮するPCLオーケストラがたくましい喇叭を吹き枯らして、「アフガニスタン」や「ブルースカイ」などの古いナンバーを演奏し始めました。セットの巨大な達磨が割れて、中から二村さんが飛び出すと、
「けふはルルさんのお誕生日なので特にお馴染みの唄を歌ひませう」
 と云ふて「アラビアの唄」や「テルミー」などを目を細めて気持ちよさゝうに歌ひました。
 それから川畑文子さんと中川三郎さんが横あひから飛び出してソフトシューのタップで黒ン坊のセントルイスブルースを踊りました。
 それから岸井明と藤原釜足のコムビが寸劇をしてスヰートなジャズソングを歌ひました。岸井明は巨体を羽毛のやうに軽やかに舞はせてトテモ甘く「ダイナ」を歌つたのでルルもうつとりとしてゐました。
 それから国際電話でハリウッドのシャリイ・テムプルちやんがルルに日本語で「お芽出度う」を言ひました。謹聴してゐた周囲の群衆から、「これは百萬円くらい掛かつてゐるよ」といふ大宅壮一のひそひそ声が聞こへました。
 それから高瀬實乗が森の石松の扮装で隠し芸をしました。ルルは大粒の涙を飛ばして笑ひ転げました。
 それから堀口大學が、五月に来日するといふジャン・コクトオに依頼して書ゐて貰つたというルルの為の詩を朗読しました。
 それから、五月に来日するといふチャプリンが特にルルの為に新妻のポーレット・ゴダードと撮りおろしたといふブルーフヰルムが上映されました。警視総監の丸山鶴吉閣下が誰よりも大喜びで喝采を送つてゐました。
 それから宝塚少女歌劇と松竹少女歌劇のスタアが十人ばかりと日劇ラインダンスで、本物の軽戦車を使つた御誕生日レヴューが演ぜられました。戦車が空砲を撃つと、其の迫力にラインダンスが太股を根つこまで見せて転げました。
 それから閑院宮参謀閣下の提唱で、ルルの誕生祝いの演説と万歳三唱が行なはれました。さうして、それらが全部、黒澤明といふ助監督の采配で総天然色フヰルムに撮られてゐました。


  3
 倉庫の外には、革命でも起こつたかのやうな爆音が近く遠くに轟きはじめました。
「いま連合艦隊東京湾で祝砲を打つてゐる頃ですよ。其れからこの上空で海軍航空隊の源田サーカスが曲芸をしてゐます。此んな騒動は帝都騒擾事件以来ですよ。」
 僕はルルの火照つた耳朶に囁きました。急ごしらへのスクリーンに、さつそくサーカス飛行の様子が荒い画像で映し出されます。飛行隊はハッピーバスデーと白煙で空に字を書くと何処かへ飛び去つてしまひました。
「此れは早稲田で実験中のテレヴィジョンといふ魔法です」
「マアア素敵! 」
「遠くで起こつた事も同時刻に離れた処で見られるのです。ホラ、これは今年から渋谷で始まつた忠犬ハチ公の慰霊祭の実況だよ」
 ルルは感動しきつて眸を潤ませながら、紅唇の前に両掌を翳しました。
 ところがそのとき、立食テーブルが倒れてバカラやウェッヂウッドやスージークーパーの皿が幾つも弾け割れる音が響きました。吃驚して振り返へると、鬱憤が酒で暴発したのか、ルルに内緒で呼んでゐたパンピネオのリキー宮川が、江川宇礼雄と取つ組み合いの大喧嘩を演じてゐました。
「マア駄目ぢやない。パンピネオつたらお止めなさい」
 リキーはすでに尻尾を生やして、派手なスーツに縞模様まで戻つてきてゐます。酒に酔つたリキーは文字通り虎になつて轟々と吼えてゐました。ルルは手近のテエブルに飾つてあつたガレの茸のラムプを掴むと
「お止しツたら」
 と叫んでリキーの脳天を殴りました。
「窮ッ」
 リキーは巨大な猫のやうに伸びてしまひました。
「一体どうしたつていふのよ」
 ルルが赤い口をぱくぱくさせて周りで観戦してゐたピストン堀口にまくしたてると、ピストン堀口は洋服を着てゐるのが居心地悪さうにしながら
「いやあ何んでもリキーのと江川君のとどつちが大きいか自慢してゐる内に喧嘩になつたやうですよ」
 とおずおず答へたので、倉庫に集まつた数十人のお客がみんないつせいにドッと笑ひました。
 ルルも機嫌を直して頬を輝かして笑つてゐたので、お誕生會は大団円を迎へたのです。