さへずり草紙NEO

旧はてなダイアリーを引き継いでいます。

ルルの伯林デビュー


ヒトラー総統の計らいでホテル・エデンの最上階を住処にしてゐたルルと僕とパンピネオは、流石に一ヶ月もすると灰色と赤色と黒色の伯林の街並みに飽きてきました。ダンスにもレヴュー観劇にも飽きたルルは或る日、カーデーヴェー百貨店の大きな包みをパンピネオの背中に載せて憤然として帰つてきたものです。
「聴いて頂戴!三井や三菱の奥様たちが集まつてゐる日本倶楽部の連中は妾を見ると、あれあの浅草藝人くずれがゲッベルスやヒトラアのお蔭で背伸びなんぞしてと陰口をきくのよ!」
 僕は別珍のソファで涼しいグリーンの色を液体にうつしたモヒートを呷りながら
「それあ奥様方の僻みでせう!ルルも伯林中に知られるやうな歌手になつたらいゝでせう、さうすれば誰も何も云ひませんよ」
 と言ひました。ルルはボブの軽やかな髪をはらりと跳ねあげて振り向くと、初めて気がついたことのやうに目を見開きました。
「さうねヱ!妾、この大都会でデビューするんだわ!あの高慢ちきな奥様達にぐうの音も出させなくするんだわ!それが妾の使命よ!」
「使命だなんて大げさな」
 きついカクテルの加減でやゝ大胆になつた僕がせゝら笑ふと、ルルが怒つて百貨店の袋からハイヒールや堅い独逸パンや婦人雑誌やコムパクトや消火瓶や西洋こけしや化粧ポーチや衛生サックや婦人拳銃などを掴み出して僕にぶつけはじめました。さうして最後に溶接用の防護面を引つ張り出すと顔に被せて、黒い遮光板越しに僕を睨みながらくゞもつた声で叫びました。
「雪夫さんはどうせ奥様と付き合つてゐるから、そんな人を小馬鹿にしてゐるのでせう!けがらわしい!!きいいい」
「僕はとつくに奥様とは別れてゐますよつ」
「いゝへ!目が笑つてゐるわ!ルルがデビューしてもドウセ成功なんざしないと思つてゐるんでせう!あの奥様とせゝら笑ふつもりなんでせう!悔しい!!」
「僕はそんなにもてやしませんよ!奥様は今ごろ旦那さんと奉天で新しい生活を」
 ルルは立ち竦み、防護面の中で慄然と震へました。
「マア、どうして其んなことまで!おそろしい人。」
「今朝のフランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥングの消息欄に載つて…イテッ」
 僕は小一時間ルルにとつちめられました。



 II
「どうして俺がこんな役をしなきやいけないんだヨ」
 パンピネオがぶつくさと愚痴りながら僕を乗せて夜のクールフュアステンダム通りをのそのそ歩きました。
「仕方ないだらう。ルルを怒らせちまつたんだから、ルル・デビューの会場を見つけなきやホテルに帰れないんだよ。」
「だいたい雪夫のくせに会場を決めたりルルのマネーヂメントができるのか?チビで不細工なくせに」
「チビで不細工ならゲッベルス博士だつてさうだらうが」
 ショー・ウィンドウの光る夜道をそんなことを云つて歩いてゐたら、いきなりゲシュタポのバイクが前から猛進してきて、僕とパンピネオの前に止まりました。さうしてぶんぶん唸つてゐるBMWサイドカーからチビなゲッベルス博士がスクッと立つてナチス式の敬礼をしました。
「諸君らが私のことをチビで不細工だと放言したといふ報告が来たのだが」
 僕はナチスの情報網の完璧さに舌を巻きました。
 ゲッベルスは高価さうな黒檀のステッキで石畳をカツカツと突きながら、お得意の演説を始めました。
「話は全部聞いた。ルルのデビューならば吾がナチスドイツ帝国の威信にかけて成功させやう。差し当たり三千人を収容するウーファ・パラストで手を打つてはどうかね?ギャランティーは五万ライヒスマルク(†)。私がマスコミュニケーションの皆様に指令して、伯林だけで千五百紙の新聞に絶賛の批評を書かせやう。どうだね文句あるかね?総統も私もルルの魅力の虜なのだよ。殊にあの怒つた顔…」
 ゲッベルス博士はしばし陶然とした面持ちになつてダラシなく長靴のつま先でマンホールの凹みをいじいじと突付いてゐましたが、ハッと我に帰るとふたゝびキビキビした動作で僕たちをステッキで指差し、
「兎に角さういふことである。ルル嬢に即刻伝へるがよい」
 と云ひ残すと、ナチス式敬礼とBMWの朦々とした排気ガスを残して消へ去りました。僕とパンピネオは街灯の下で躍り上がって喜びました。
「きつとルルも大喜びだよ!」



 III
 黒い蠱惑的なナイトドレスに絹の薄いカーディガンを羽織ってくつろいでゐたルルは、バカラに注いだクリュッグシャンパンを勢いよく僕とパンピネオにぶちまけました。
「あなた達、馬鹿ぢやないかしら?妾がそんな政府御用達の批評を貰つて喜ぶと思つて?伯林のファンの前で歌ふことができれば場末だらうが何処だらうが歌ふし、批評なんかどうでもいいのよ!」
「俺は最初からさう云つたんだよ。雪夫の馬鹿がゲッベルスの云ふことを真に受けて」
「だいたい妾はナチスとごきぶりが大嫌いなのよ!だつて似てゐるぢやない?」
「さうかしら?」
「黒光りしてゐるところとか堅さうなところとか滑らかで…アラいやだわ雪夫さんたら」
「僕なにも云つてません。でも云はれてみると突撃隊に似てゐるなあ。」
僕は床を這つてゐたごきぶりをアイスピックで突き刺して、六本の脚が別々に藻掻いてゐる奴をルルの目の前に突き出しました。
「キャアヽヽヽヽヽヽヽ」
 婦人用のコルトで狙ひもつかず無闇にパンパン撃たれながら僕とパンピネオはホテルを飛び出しました。
「まつたく雪夫は碌なことをしないな」
「あんな虫がゐるんだつたらパンピネオが見つけ次第食つちまへばよかつたのに!」
「あんなものを食つてゐることが知れたらルルがもうキスして呉れないだらうが」
「食べてはゐるんだね?」
「……」
 人通りもまばらな深夜のクールフュアステンダム通りをパンピネオとかつかつ歩いてゐたら、向ふから思ひも寄らずベーちゃん先生こと二村定一さんが歩いてきました。
「えゝゝゝゝ!」
 思はず叫び声をあげると、べーちやん先生も僕たちの前ではたと立ち止まりました。白粉をはたいて真赤に裂けたやうな唇とピエロのやうな眉を黒々描いた容貌は間違いなく二村定一さんです。
「あの、いつたい何時こちらに来たんですか?」
 べーちやんは早口の独逸語で何か云ひました。
「僕ですよ、べーちやん先生に何度も掘られた雪夫ですよ!」
 さう云つてくるりと振り向き、お尻を向けると、べーちやん先生は矢張り独逸語でなにか喚きながら両手を派手に開いて喜び、僕のお尻に頬ずりしました。
「そんな何ヶ月も経つてゐないのに独逸語かぶれになつたんですか?」
 パンピネオが僕の袖を口で引つ張りました。
「これはどうも二村さんぢやなさゝうだぜ。」
「左様。私はフタムラさんぢやありません。しかし少年のお尻は好きです」
「あなたはどなた?」
「この先にあるキット・カット・クラブといふカバレットの司会をしてゐるんですよ」
「カバレットですつて?」
 僕はパンピネオと顔を見合わせました。
 カバレット「キット・カット・クラブ」は人通りのないクーダムの通りとは対照的に、店内に一歩入るとタバコの煙と五色のカクテルとジャズと眩いライトとミラーボールで、宴たけなわでした。さつきのべーちやん紛いが小さなステージの袖から飛び出して、凶暴なまでのユーモアを湛へてジャズシンガーの紹介をしてゐました。ディトリッヒ張りの歌手が歌ひだしたのを尻目に、僕は舞台裏に飛び込んで伯林のべーちやんを捕まへると、懇々とルルを売り込みました。
「さうかい、まアいゝだらう、出演して貰はう。処で斯ういふ好意的な取り決めにはそれなりの見返りも…」
「俺は一足先にルルに知らせに行くぜ。」
 パンピネオがウィンクをしてそゝくさと去りました。僕はその晩、ホテルに返して貰へませんでした。



 IV
 デビューの日になると、ルルはもうそはそはして居てもたつてもゐられない様子でした。
「妾、チャンとできるかしら?お客様は来てゐるんでせうね?伯林まで来て恥はかきたくないわ!」
「この間はどんな場末でも評判が悪くてもいゝと云つたぢやないか」
「雪夫さんは妾を陥れやうとしてるの?デビュー前なんだから高揚させて頂戴!」
「ルル・デビューが終つたら巨きな豹の縫いぐるみでもプレゼントしませう。」
「マア!!」
 ルルは顔色をパッと輝かせ、少女のやうににこにこ笑ひました。パンピネオが拗ねて布団を噛み破り、部屋中をふはふはと羽毛だらけにしました。白い羽毛が夢のやうに舞ふなかでルルはクルクルと回つてみせて、それから練習に余念がありませんでした。
 ミラーボールが弾き返すまばゆい光と迷走する三色の照明を浴びて、例の伯林のべーちやんがギラギラ光る派手な衣装で手を大きくひろげてステージに飛び出しました。彼は思ひ入れたつぷりに顔を作りながら、俗悪と優雅さの入り混じつた魔法のやうな司会をしました。
「伯林のごろつき連中の皆さん、今夜の歌姫はいつものビッチな歌うたひ共とは訳が違ふよ!わざわざ今夜のためにはるばる日本からやつて来た黒髪のルルだ!唄もうたへばピヤノも弾くしトークもやるといふからサア大変だよ!ナチスの殿堂ウーファ・パラストをかなぐり捨ててキット・カット・クラブを選んだといふ可愛いお馬鹿さんに拍手!」
 僕はステージに駆け出すルルに心からのキスを送りました。
 白い小ざつぱりとしたワンピースに控へ目の装身具を着けただけのルルは百人ほどで一杯になるキット・カット・クラブ満載のお客を一瞥して一瞬たじろいだかに見へましたが、伯林でもきはめつけの不良が集まる娯楽場を毒舌で沸かせました。金平糖のやうな粒の立つたタッチでピアノを弾いて自作曲を披露し、軽快なジャズバンドの伴奏に乗つて伯林でも流行つた唄をいくつも歌ひました。ひとつのナンバーが終はる度に怒涛のやうな拍手が天井のシャンデリアを揺るがしました。
「けふはこの唄で最後にするわ!妾は日本に帰るけど、いつでもルルは此処にゐるの。さうして誰もがルルなのよ!」

思い出は遠くあの楽しいときへ
心は愛の歌に満たされながら
歌いあかした

その歌はいま聞こえずとも
メロディーだけはまだ耳に残る
あのときのあのメロディー歌うと
夏はゆくよ いざ楽しんでいま

月の下にて 二人のうたう歌は
短夜に はや聴こえずとも
メロディーだけはまだ耳に残る
(歌の終つた時 "Song of the End")

 キット・カット・クラブのお客はみなシンとして最後の唄を聴き、ワルツ・テンポの伴奏が消えるより前にワッと割れるやうな拍手と賛辞をステージのルルに注ぎ込みました。ホールの遠い柱の蔭でヒトラー総統やゲッベルス博士も感涙を止めやうともせず手を叩いてゐました。伯林のべーちゃんが飛び出して、興奮のあまりスタンドマイクを引き回して叫びました。
「諸君!ルルは今晩、伝説を生みましたぞ。」
 ルルはステージから袖に駆けもどると、感激のあまりふはりとワンピースの裾を広げて僕に飛びつき、両手を握りしめました。
「大成功だわ!今夜は一杯ご馳走して下さらないこと?」
 瞳を大きく潤ませながらさう云つたルルは、いつものルルでは無いやうに思はれました。さうして、この夜の終はらない成功がルルをよりルルにしたのでした。


†) 50000RMは日本円で4〜5万円。現在の約二億円に相当。


ヒトラー総統の計らいでホテル・エデンの最上階を住処にしてゐたルルと僕とパンピネオは、流石に一ヶ月もすると灰色と赤色と黒色の伯林の街並みに飽きてきました。ダンスにもレヴュー観劇にも飽きたルルは或る日、カーデーヴェー百貨店の大きな包みをパンピネオの背中に載せて憤然として帰つてきたものです。
「聴いて頂戴!三井や三菱の奥様たちが集まつてゐる日本倶楽部の連中は妾を見ると、あれあの浅草藝人くずれがゲッベルスやヒトラアのお蔭で背伸びなんぞしてと陰口をきくのよ!」
 僕は別珍のソファで涼しいグリーンの色を液体にうつしたモヒートを呷りながら
「それあ奥様方の僻みでせう!ルルも伯林中に知られるやうな歌手になつたらいゝでせう、さうすれば誰も何も云ひませんよ」
 と言ひました。ルルはボブの軽やかな髪をはらりと跳ねあげて振り向くと、初めて気がついたことのやうに目を見開きました。
「さうねヱ!妾、この大都会でデビューするんだわ!あの高慢ちきな奥様達にぐうの音も出させなくするんだわ!それが妾の使命よ!」
「使命だなんて大げさな」
 きついカクテルの加減でやゝ大胆になつた僕がせゝら笑ふと、ルルが怒つて百貨店の袋からハイヒールや堅い独逸パンや婦人雑誌やコムパクトや消火瓶や西洋こけしや化粧ポーチや衛生サックや婦人拳銃などを掴み出して僕にぶつけはじめました。さうして最後に溶接用の防護面を引つ張り出すと顔に被せて、黒い遮光板越しに僕を睨みながらくゞもつた声で叫びました。
「雪夫さんはどうせ奥様と付き合つてゐるから、そんな人を小馬鹿にしてゐるのでせう!けがらわしい!!きいいい」
「僕はとつくに奥様とは別れてゐますよつ」
「いゝへ!目が笑つてゐるわ!ルルがデビューしてもドウセ成功なんざしないと思つてゐるんでせう!あの奥様とせゝら笑ふつもりなんでせう!悔しい!!」
「僕はそんなにもてやしませんよ!奥様は今ごろ旦那さんと奉天で新しい生活を」
 ルルは立ち竦み、防護面の中で慄然と震へました。
「マア、どうして其んなことまで!おそろしい人。」
「今朝のフランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥングの消息欄に載つて…イテッ」
 僕は小一時間ルルにとつちめられました。


 II
「どうして俺がこんな役をしなきやいけないんだヨ」
 パンピネオがぶつくさと愚痴りながら僕を乗せて夜のクールフュアステンダム通りをのそのそ歩きました。
「仕方ないだらう。ルルを怒らせちまつたんだから、ルル・デビューの会場を見つけなきやホテルに帰れないんだよ。」
「だいたい雪夫のくせに会場を決めたりルルのマネーヂメントができるのか?チビで不細工なくせに」
「チビで不細工ならゲッベルス博士だつてさうだらうが」
 ショー・ウィンドウの光る夜道をそんなことを云つて歩いてゐたら、いきなりゲシュタポのバイクが前から猛進してきて、僕とパンピネオの前に止まりました。さうしてぶんぶん唸つてゐるBMWサイドカーからチビなゲッベルス博士がスクッと立つてナチス式の敬礼をしました。
「諸君らが私のことをチビで不細工だと放言したといふ報告が来たのだが」
 僕はナチスの情報網の完璧さに舌を巻きました。
 ゲッベルスは高価さうな黒檀のステッキで石畳をカツカツと突きながら、お得意の演説を始めました。
「話は全部聞いた。ルルのデビューならば吾がナチスドイツ帝国の威信にかけて成功させやう。差し当たり三千人を収容するウーファ・パラストで手を打つてはどうかね?ギャランティーは五万ライヒスマルク(†)。私がマスコミュニケーションの皆様に指令して、伯林だけで千五百紙の新聞に絶賛の批評を書かせやう。どうだね文句あるかね?総統も私もルルの魅力の虜なのだよ。殊にあの怒つた顔…」
 ゲッベルス博士はしばし陶然とした面持ちになつてダラシなく長靴のつま先でマンホールの凹みをいじいじと突付いてゐましたが、ハッと我に帰るとふたゝびキビキビした動作で僕たちをステッキで指差し、
「兎に角さういふことである。ルル嬢に即刻伝へるがよい」
 と云ひ残すと、ナチス式敬礼とBMWの朦々とした排気ガスを残して消へ去りました。僕とパンピネオは街灯の下で躍り上がって喜びました。
「きつとルルも大喜びだよ!」


 III
 黒い蠱惑的なナイトドレスに絹の薄いカーディガンを羽織ってくつろいでゐたルルは、バカラに注いだクリュッグシャンパンを勢いよく僕とパンピネオにぶちまけました。
「あなた達、馬鹿ぢやないかしら?妾がそんな政府御用達の批評を貰つて喜ぶと思つて?伯林のファンの前で歌ふことができれば場末だらうが何処だらうが歌ふし、批評なんかどうでもいいのよ!」
「俺は最初からさう云つたんだよ。雪夫の馬鹿がゲッベルスの云ふことを真に受けて」
「だいたい妾はナチスとごきぶりが大嫌いなのよ!だつて似てゐるぢやない?」
「さうかしら?」
「黒光りしてゐるところとか堅さうなところとか滑らかで…アラいやだわ雪夫さんたら」
「僕なにも云つてません。でも云はれてみると突撃隊に似てゐるなあ。」
僕は床を這つてゐたごきぶりをアイスピックで突き刺して、六本の脚が別々に藻掻いてゐる奴をルルの目の前に突き出しました。
「キャアヽヽヽヽヽヽヽ」
 婦人用のコルトで狙ひもつかず無闇にパンパン撃たれながら僕とパンピネオはホテルを飛び出しました。
「まつたく雪夫は碌なことをしないな」
「あんな虫がゐるんだつたらパンピネオが見つけ次第食つちまへばよかつたのに!」
「あんなものを食つてゐることが知れたらルルがもうキスして呉れないだらうが」
「食べてはゐるんだね?」
「……」
 人通りもまばらな深夜のクールフュアステンダム通りをパンピネオとかつかつ歩いてゐたら、向ふから思ひも寄らずベーちゃん先生こと二村定一さんが歩いてきました。
「えゝゝゝゝ!」
 思はず叫び声をあげると、べーちやん先生も僕たちの前ではたと立ち止まりました。白粉をはたいて真赤に裂けたやうな唇とピエロのやうな眉を黒々描いた容貌は間違いなく二村定一さんです。
「あの、いつたい何時こちらに来たんですか?」
 べーちやんは早口の独逸語で何か云ひました。
「僕ですよ、べーちやん先生に何度も掘られた雪夫ですよ!」
 さう云つてくるりと振り向き、お尻を向けると、べーちやん先生は矢張り独逸語でなにか喚きながら両手を派手に開いて喜び、僕のお尻に頬ずりしました。
「そんな何ヶ月も経つてゐないのに独逸語かぶれになつたんですか?」
 パンピネオが僕の袖を口で引つ張りました。
「これはどうも二村さんぢやなさゝうだぜ。」
「左様。私はフタムラさんぢやありません。しかし少年のお尻は好きです」
「あなたはどなた?」
「この先にあるキット・カット・クラブといふカバレットの司会をしてゐるんですよ」
「カバレットですつて?」
 僕はパンピネオと顔を見合わせました。
 カバレット「キット・カット・クラブ」は人通りのないクーダムの通りとは対照的に、店内に一歩入るとタバコの煙と五色のカクテルとジャズと眩いライトとミラーボールで、宴たけなわでした。さつきのべーちやん紛いが小さなステージの袖から飛び出して、凶暴なまでのユーモアを湛へてジャズシンガーの紹介をしてゐました。ディトリッヒ張りの歌手が歌ひだしたのを尻目に、僕は舞台裏に飛び込んで伯林のべーちやんを捕まへると、懇々とルルを売り込みました。
「さうかい、まアいゝだらう、出演して貰はう。処で斯ういふ好意的な取り決めにはそれなりの見返りも…」
「俺は一足先にルルに知らせに行くぜ。」
 パンピネオがウィンクをしてそゝくさと去りました。僕はその晩、ホテルに返して貰へませんでした。


 IV
 デビューの日になると、ルルはもうそはそはして居てもたつてもゐられない様子でした。
「妾、チャンとできるかしら?お客様は来てゐるんでせうね?伯林まで来て恥はかきたくないわ!」
「この間はどんな場末でも評判が悪くてもいゝと云つたぢやないか」
「雪夫さんは妾を陥れやうとしてるの?デビュー前なんだから高揚させて頂戴!」
「ルル・デビューが終つたら巨きな豹の縫いぐるみでもプレゼントしませう。」
「マア!!」
 ルルは顔色をパッと輝かせ、少女のやうににこにこ笑ひました。パンピネオが拗ねて布団を噛み破り、部屋中をふはふはと羽毛だらけにしました。白い羽毛が夢のやうに舞ふなかでルルはクルクルと回つてみせて、それから練習に余念がありませんでした。
 ミラーボールが弾き返すまばゆい光と迷走する三色の照明を浴びて、例の伯林のべーちやんがギラギラ光る派手な衣装で手を大きくひろげてステージに飛び出しました。彼は思ひ入れたつぷりに顔を作りながら、俗悪と優雅さの入り混じつた魔法のやうな司会をしました。
「伯林のごろつき連中の皆さん、今夜の歌姫はいつものビッチな歌うたひ共とは訳が違ふよ!わざわざ今夜のためにはるばる日本からやつて来た黒髪のルルだ!唄もうたへばピヤノも弾くしトークもやるといふからサア大変だよ!ナチスの殿堂ウーファ・パラストをかなぐり捨ててキット・カット・クラブを選んだといふ可愛いお馬鹿さんに拍手!」
 僕はステージに駆け出すルルに心からのキスを送りました。
 白い小ざつぱりとしたワンピースに控へ目の装身具を着けただけのルルは百人ほどで一杯になるキット・カット・クラブ満載のお客を一瞥して一瞬たじろいだかに見へましたが、伯林でもきはめつけの不良が集まる娯楽場を毒舌で沸かせました。金平糖のやうな粒の立つたタッチでピアノを弾いて自作曲を披露し、軽快なジャズバンドの伴奏に乗つて伯林でも流行つた唄をいくつも歌ひました。ひとつのナンバーが終はる度に怒涛のやうな拍手が天井のシャンデリアを揺るがしました。
「けふはこの唄で最後にするわ!妾は日本に帰るけど、いつでもルルは此処にゐるの。さうして誰もがルルなのよ!」

思い出は遠くあの楽しいときへ
心は愛の歌に満たされながら
歌いあかした

その歌はいま聞こえずとも
メロディーだけはまだ耳に残る
あのときのあのメロディー歌うと
夏はゆくよ いざ楽しんでいま

月の下にて 二人のうたう歌は
短夜に はや聴こえずとも
メロディーだけはまだ耳に残る
(歌の終つた時 "Song of the End")

 キット・カット・クラブのお客はみなシンとして最後の唄を聴き、ワルツ・テンポの伴奏が消えるより前にワッと割れるやうな拍手と賛辞をステージのルルに注ぎ込みました。ホールの遠い柱の蔭でヒトラー総統やゲッベルス博士も感涙を止めやうともせず手を叩いてゐました。伯林のべーちゃんが飛び出して、興奮のあまりスタンドマイクを引き回して叫びました。
「諸君!ルルは今晩、伝説を生みましたぞ。」
 ルルはステージから袖に駆けもどると、感激のあまりふはりとワンピースの裾を広げて僕に飛びつき、両手を握りしめました。
「大成功だわ!今夜は一杯ご馳走して下さらないこと?」
 瞳を大きく潤ませながらさう云つたルルは、いつものルルでは無いやうに思はれました。さうして、この夜の終はらない成功がルルをよりルルにしたのでした。


†) 50000RMは日本円で4〜5万円。現在の約二億円に相当。