さへずり草紙NEO

旧はてなダイアリーを引き継いでいます。

「ルル伯林へ行く」(下)

 クールフュアステンダム通りは、四月といふのにまだ分厚い外套を着こむだ紳士淑女でごつたがへしてゐました。空気の澄んだ真青な空に赤と白と黒の鉤十字旗がはらはらとはためいて目にも鮮やかでした。通りの街頭ごとに旗が飾してあつて、赤い波が通りの彼方まで続くさまは、まさに壮観でした。ネオ・ゴチック様式の重厚なカーデーヴェー百貨店の方角からは人いきれの風に乗つてホルスト・ヴェッセルの勇壮な歌が切れ切れに流れてきます。
「どう!独逸つていふ感じがするぢやないこと?」
 ルルはスマアトな飛行服のまゝ伯林の空気を胸いつぱいに吸つて、すつかりはしやいでゐます。僕はそんなことよりも、天王寺動物園チンパンジー、リタ嬢の卵子と僕の精子を持つたまゝ、コンナ人ごみの中にゐて大丈夫なのだらうか?と其のことばかり心配をしてゐました。ルルは僕の胸の内を見透かしてゐたやうに
「雪夫さんは心配性だわ。木は森に隠せつて云ふじやない。クーダムは伯林銀座よ。これだけ人がゐたら妾たちがいくら派手でもゲシュタポにだつて見つけられないわ!」
 と云ひました。
「俺は背中に化け物の素が載つてゐるかと思ふと気持ち悪くて仕様がないよ」
 パンピネオは二種類の試験管の納まつた小さなリュックサックを背中にゆわいつけられて、通りがかる人から独逸語で口々に何か声を掛けられてゐます。
 「この受精卵は何処に持つていくつもりなの?ルル」
「さうねヱ。妾、この灰色の大都市で一はた挙げるんだから飛び切りお似合ひの処に持つて行くわ。ハーゲンベック曲馬団だつたらきつと高価く買つてくれるでせう?妾は曲馬団でパンピネオと慣れ合ひの芸を見せて独逸一の人気者になるのよ!」
 「リタ嬢と僕の子供は?」
 「さうねえ…『親の因果が子に報ひ〜』ていふ熊娘の見世物があつたぢやない?あれをしたらいいワ」
 「それは非道い!」
 そのとき、矢庭に「見つけたぞ!」といふ叫び声が聞こへて、クーダムの道路に似つかはしくない軍用トラックが砂煙をあげて急停止すると、人ごみを蹴散らしてナチスの親衛隊が一ダースほども飛び降りて鉄砲を構へてパンパンと撃ちはじめました。
「貴様達だらう、日本から独逸帝国の科学技術の粋の素を横取りして逃走したのは!さつさと寄越したら平和に解決してやるから投降しなさい」
「もう撃つてるじやないか」
僕たちは泡を食つて逃げ出しました。
「さすがゲシュタポだわ!すぐに見つけたわね。」
「飛行服の美人が虎を連れて歩いてゐたらヘレン・ケラーにだつて見つけられるよ」
ルルと僕はパンピネオの背中に乗つかると、風を切つて伯林の街を疾駆しました。街の風景がまたゝく間に多彩な色の混じつた帯となつて背後に流れていきました。
「なにヨ、伯林伯林した風景が見られないんじやあ浅草でも伯林でも変はらないことよ。」
「そんなら止まるぜ。」
 パンピネオは旋毛を曲げて、朦々たる砂埃をたてながらつんのめるやうに急ブレーキをかけました。盛大な砂埃が薄れると、白熱するサーチライトに照らされて、ギリシャの宮殿のやうな白亜の殿堂が薄暮にまばゆく浮かび上がりました。その城にはまたおびたゞしい青年男女が出入をしてをり、銀色に輝く広い間口の玄関フロアーの上にはデルフィといふ館の名前がアール・デコ調の体裁でかゝげられてありました。
「マア!デルフィよ!妾、いちど此処で踊つたり歌つたりしたかつたのよ!」
 ルルの云ふには、其れはベルリンでも随一の高級なダンスホールで、夜毎、第一流のダンスオーケストラが招かれて演奏し、歌手が歌ひ、それを伴奏にして一晩中踊り狂ふといふ、十二時の来ないシンデレラのお城みたやうな娯楽場なのださうです。其処はまた、シンデレラのお城の王子様が来ても可笑しくないやうな上筋のお客が沢山足を運ぶのださうです。僕たちは一人あたま三ライヒスマルクを支払つてデルフィに闖入しました。分厚いコートの制服に身を包んだ門番が、パンピネオがのつそり這入るのを見てあはてゝ独逸語で「虎を入れられては困る」と難癖をつけてきましたが、二マルク余計に握らせたら其の儘、通らせて呉れました。其のデーニッツといふ名前の門番に更に何マルクか掴ませて耳元に囁くと、デーニッツは電気仕掛のやうに何処かへ走つてゆきました。

 デルフィの広い踊り場では、緩やかなフォックストロットのスウィングに合はせてダンスに興じるカップルが呼吸をするやうに渦巻いてゐました。踊り場を囲んでテエブルが幾つも整然と並んでおり、踊らない客や見るからに爵位ありさうな貴賓は思ひ思ひに飲み食べをしてゐます。さらにその背後には雛壇がしつらへてあつて、ダンスオーケストラが美しいハーモニーを送り出してゐます。
僕たちは手近のテエブルに座ると、ボイを呼んでシャンパンとオードブルの盛り合はせ、「本日のチーズ」を注文しました。其処に僕の命を受けたデーニッツが大袈裟な包を抱へて戻つてきました。シャンパンの到着が待ちきれなくて鴨肉ロースとキャビアの赤ワイン蒸しのオードブルを頬張つてゐるルルが興味深さうに門番の捧げてゐる箱を見つめてゐます。
「ルルは何時まで飛行服みたいな無粋なものを着てゐるんだろう?」
「アラ、だつてズット飛行機を操縦してきたんだし伯林に着いたらクールフュアステンダムを銀ブラする前にゲシュタポに追ひかけられたんじやないの!雪夫さんは頭でも可笑しいんぢやないかしら?殺される処だつたのよ!着替へる暇があつたら欲しいくらいよ!」
「じやあ上げませう。その包を開けて御覧なさい」
 デーニッツ門番から手渡されたマーブル紙の華美な箱を開けたルルは歓声をあげながら、淡い菜の花色に白い襟のついたシンプルなワンピースをつまみあげました。艶やかな絹の長手袋と靴下、二重にして首に掛ける真珠の首飾まで用意が整つてゐるのを見てルルは一瞬、瞳を潤ませましたが直ぐにツンと鼻を尖らせて
「妾には相応なところかしら?此処で着替えろつて云ふんじやないでせうね?」
 と云ふと浮き足立つて更衣室に駆けてゆきました。門番が剽軽な顔をして肩を竦めました。着替へて戻つて来たルルは、春めいたはなやかなワンピースに笑顔を載せて、日本でもこんな上機嫌なルルは見たことがないくらいだと思へる程でした。白いお仕着せのボイが大袈裟なシャンパングラスとシャンパンのボトルを二人がかりで携へてテエブルに来ると、ルルはふたゝび歓声を上げました。
「まあ!夢にまでみたクリュッグだわ!伯林で頂けるとは思つてゐなかった!」
「けふはルルの誕生日でせう?乾杯をしませう」
「乾杯」
 シャンパンを一気に呷つたルルは燥ぎました。
「雪夫さんは妾の欲しいものを見つけ出すことにかけては世界一だわね。…でも妾の服のサイズがよく分かつたわね!」
「簡単。ルルの洋服箪笥のものを自分で着てみたらワンピースでも何んでも…」
 ルルは怒りに着火して二百ライヒスマルクのヴィンテージシャンパンを僕にぶつ掛け、平手打ちを食らはせました。
「妾、踊つてくるわ!えゝ伯林にだつて感じのいゝ男なら幾らでも転がつてゐるんだから!」
パンピネオは平皿にシャンパンを満たして長い舌でピチャピチャと舐めてゐましたが朦朧とした酔眼で騒動を眺めると、酔つた勢ひでハンサムなリキー宮川の姿に戻りました。
「パンピネオがリキーに戻るなんて最近じやあ珍しいじやないか」
「あゝ、今宵はルルと伯林の素晴らしい夜を過ごしたいからな。貴様とではなくてな!」
 パンピネオはルルの顎の下を擽つたりなどして手際よく機嫌を宥めると、ルルの腰をいやらしく抱いて踊りに行きました。ドサリ、といふ音に振り向くと、パンピネオの秘密を目の当たりにした門番のデーニッツが失神して倒れてゐました。
 ルルと踊りにいつたリキーは、しかしすぐに浮かない顔でテエブルに帰つてきました。
「誰だか独逸人の親爺に上手いことやられてルルを取られたよ」
 踊り場をすかし見ると、ちびな僕と大して変はらない中年の小男がルルと楽しさうにワンステップを踊つてゐました。
「誰だい?」
「知らねえ。ルルが他の男と踊つてゐる処なんか見たくもない」
「なにを喋つてゐるか聞き耳を立てに行かう」
「雪夫と踊るのは厭だけどなあ」
 僕はパンピネオのリキーと抱き合つて踊り場にまろび出ました。さり気なくルルのカップルに擦り寄ると、中年男がルルの貝細工のやうな耳朶に囁いてゐる言葉が洩れなく聞へました。
「…だから俺の云ふことを聞いて呉れたら伯林一のマンションを提供しやう。レニ・リーフェンシュタールオリムピックの映画を撮り終はつたら君をヒロインにして独逸一の女優にしてやつてもいゝ。私は美しいものが何よりも好きなのだ」
 男の言葉を聞いたリキーは僕を突き離して、驚くべき力でルルから中年男を引き剥ぐと、胸ぐらを掴むで激しく振り回しました。
「パンピネオ!その人はまづいわ!離してあげて頂戴!」
 ルルが叫びました。しかし時すでに遅く、小男はホールの床に叩きつけられてゐました。僕たちは踊り客たちの注目の的です。小男はよろよろと立ち上がると、ネクタイを締め直して身繕ひをしました。何処からか黒服が滑り出てきて、「ドクトル、お怪我は」と気遣ふと、僕たちの方に向き直りました。さうして憤然として何か云はうとするのを小男が制止して自分で喋り始めました。
「私は美しいものは大好きだが、それ以上に憎い。だから美しいものは手元に置いて私が支配することに決めてゐる。卓越した美人女優のレナーテ・ミュラーをご存知か?あの女も美しかつた。私を罵倒するまでは…マンションから落ちて自殺するまではねえ」
 小男は軽く足を引き摺つてゐました。
「日本でも名前くらいは知つてゐるだらう。私がゲッベルス博士だ。私も君たちを知つてゐる。昼間はクーダムで活躍したさうじやないか。」
 いつの間にか、踊り場の周囲には黒い制服のナチス親衛隊が殺到して、幾つか数へられないくらいの銃口を僕たちに向けてゐました。
「けふは私がお忍びで来てゐたのを感謝するんだね。国際的な問題にはしないでおかうぢやないか。雪夫君と其の化け物には猶太人のお友達を沢山作つてやらう。ルルはお約束通り私が囲つてしあわせにしてやる」
 ルルは口を曲げてゲッベルスの頬を思ひきり引つ叩きました。
「厭だわ!だつて貴方ぢや冗談なんか通じなさゝうじやないの」
「冗談くらい私でも云へるぞ。或るとき、私は森の中の沼で溺れて死にかけた。すると少年が私を引き上げて助けて呉れた。そこで少年に何でもいゝから褒美をやらう、と告げたら、その少年は答へたんだ。『だつたら貴方を助けたことを誰にも云はないでください、皆に恨まれるから』と。ハハハッ」
 周囲の独逸人たちがドッと笑ひました。
「そんなの冗談じやないわ!この鬼畜!人でなし!悪魔!」
 ゲッベルス宣伝相はうつすらと快感を目に浮かべて陶酔しました。
「ありがたう。レナーテも落ちる前にさう云つてゐた。」
 さうして親衛隊の群れに向かつて腕を突き出し、命令しました。
「こいつらをポーランド国境の収容所に放り込め」
 そのとき遅くかのとき早く、近くのテエブルから立ち上がつてゲッベルスの腕を無理やり下げさせた男がゐました。
「けふはやめなさい。折角のルルの誕生日を汚したら私も悲しいぞ」
「総統!」
 親衛隊員の銃口が一斉に天井に向けられ、四方から機敏に腕が突き出されました。ヒトラー総統はゆつくりと僕たちのほうに振り向くと、ルルの頭をくるくると撫でました。
「君の評判なら雪夫君の作文を外務省経由で受け取つてよく承知してゐるよ。けふの誕生日を不愉快にして申し訳ない。」
「総統が仰るなら妾、どうとも思つてゐませんわ」
 さすがのルルもヒトラー総統を前にして緊張してゐます。
「けふは無礼講だから此処でせいぜい遊んでゆきなさい。親衛隊やゲシュタポにはいゝやうに云つておかう。それに例の…雪夫君と猿の…あれも諦めやう。其れがルルへの餞だとしたらルルはがつかりかな?」
「いいへ!総統!」
 ヒトラー総統は満足げに頷くと、手を後ろに組んでゆるやかに歩み去りました。が、二、三歩後戻りすると、ルルの耳に手を当ててこつそり訊きました。其の声は響きのよいホールに谺しましたが。
「…ところで雪夫の精子で猿の卵子が受胎したといふのは本当かね?」
「嘘ですわ総統。そんなこと、ある訳がないぢやないですか!」
 総統をはじめ、ナチスの連中は派手にずつこけました。その派手なアトラクションのやうな滑稽な景色は、或いはルルにとつて一番のプレゼントだつたかもしれません。