さへずり草紙NEO

旧はてなダイアリーを引き継いでいます。

「ルル伯林へ行く」(中)

 赤い翼の航研機はプロペラの軽い振動を機体に伝へて、切れ切れの雲と冴へた青空を只ひたすら西に飛んでゐました。幾つもの計器の針がフラフラと丸い計器盤で踊つてゐます。僕は機内の凄まじい寒さに歯の根も合はず、毛布にくるまつたまゝ、ルルに話しかけました。
「いまいまいま今飛んでゐるのはどどどどのへんですか」
 海獺の毛皮が沢山縫ひつけてあるコオトを飛行服の上から羽織つたルルは飛行機の操縦を自動操縦に任せきつて操縦席の床に座はりこみ、コンビーフと乾麺包と保温薬缶から湯気のたつ珈琲でほがらかな朝食をぱくついてゐました。彼女は朝一番のツヤツヤした頬ぺたでニッコリして云ひました。
「アラ雪夫さん、よく凍へ死なゝかつたわね!妾たちが飛んでるのはヒマラヤ山脈よ。いまは西蔵を抜けてバミール高原の上空八千メートルあたりかしら。いゝへヒンドゥークシュ山脈まで来てるかも。あら見て!そろそろアフガニスタンが下に見へるころよ!♪おーアフガニスタン おーアフガニスタン、アー懐しの君待つ国…」
 ルルが陽気に歌ひだしました。毛布をびつたりと身に纏つたまゝコクピットの風防から斜め下を覗くとルルの云ふ通り、砂糖をふりかけたやうな真白いヒマラヤ山脈が聳へ、その裾から土色の広大な大地が広がつてゐました。美しく雄大な景色に僕は思はずホッと息をつきました。耳朶に暖かい息がかゝるので吃驚してクルッと振り返ると、眼鏡つきの飛行帽をダラシなく頭に引つかけたルルも僕の真後ろから肩ごしに眼下の景色に見とれてゐました。ルルは毛布のかゝつた僕の肩から前に腕を回して、熱い珈琲でピンク色に息づいてゐる頬を僕の氷のやうな頬ぺたにくつつけて首を竦めました。
「オヽ冷たい。…でも丸二日も飛んでたら人恋しくなるでせう?まだ二日はこのまゝ飛ばなきやいけないのよ。勘違ひしないで頂戴!」
「しかしルルはよくこの航路を知つてゐたね!」
「フフヽ其れはウチの間諜団のお手柄よ。このルートはもともと独逸のルフトハンザと満洲航空株式会…」
「満航ですね!」
「マア雪夫さんたらいやらしい!真面目なお話よ!ルフトハンザと満…満洲航空の手で日本とヨオロッパをつなぐ定期航路になるはずだつたの。でも独逸と同盟したい陸軍がその計画を取つちやつたでせう。今は関東軍が蒙古に中継基地を拵へてゐる筈だわ。」
 僕は口笛を吹きながら双眼鏡でアフガニスタンを見学してゐるルルの粉がふいたやうな白い横顔を見ながら、一体この人は何者なんだらう、と底知れぬ恐ろしさに襲はれました。


 ルルの食べ残しの乾麺包となま温いホット珈琲にありついていると、操縦室とドアひとつ隔てた倉庫室からガサゴソとおかしな物音が漏れてきました。僕は乾麺包の袋を蹴散らしてドアーにとびつき、ひんやりとした金属扉板に耳をぴつたりとくつつけました。ルルもすかさずレボルバーを握りしめてドアーに向かつて片膝をついてゐます。倉庫室からはガタガタ、バリバリなどといふ訳の分からない騒音が聞こへてきます。ルルが白い息を吐いてこつそり囁きました。
「台所に蠢く黒い艶光りするあれかしら?妾あれはいやあよ!雪夫さん退治て頂戴」
「ごきぶりはバリバリなどといふ訳の分からない音は立てませんよ。もつと物騒な生き物でせう、スパイが潜り込んだのやもしれません」
「尚更イヤだわ!」
 ひそひそと話してゐると思ひがけずドアーのノブが下がり、ギイイヽヽヽヽ、と内側に開きました。レボルバーの安全弁を外す音が耳元でカチリと鳴りました。ポケットの中でメリケンサックが汗に濡れてゐます。
「だだ誰だ!」
 ドアーの向かふの暗闇からのつそり現はれたのはパンピネオでした。僕は腰を抜かしました。
「腹が減つて堪んないから航空糧秣を失敬したぜ。」
「そんなことより貴様、バイクで置いてけぼりにした筈なんだがどどどうやつて乗り込んだんだい」
「そんなことは簡単でさあ。俺は歌も歌へりやあ空だつて飛べるんですぜ。」
「誤魔化すな!」
「チョット廻り道をしただけでさあ。ルルのベッドの引き出しにヒマラヤ経由の航空地図が入つてゐたら誰だつて羽田から飛ぶつて判るだらう」
「アラちよつとあんた、妾の引き出しを覗いたのね!」
 ルルが顔色を変えました。パンピネオが得意気に大きな舌で口のまわりをべろりと舐めました。
「ああ、俺には何に使ふもんか分からないが例へば…」
「キャーこの変態虎!」
 ルルが錯乱して飛行服のポケットから爪切りやバカラのグラス、隠しカメラのついた煙草入れ、手鏡、コティの円箱、メリケンサックなどを掴み出してはパンピネオにぶつけはじめたので、僕は可笑しいのを堪へて彼女を宥めました。
「まあまあ、パンピネオだつて居ないよりは居た方が役に立つんだらうし、折角ルルを追ひかけてきたんだから」
「さうださうだ、俺を置いてけぼりにしようなんて非道い話だ」
「それもさうだわねヱ。可哀想なことしたわね」
 ルルが少ししゆんとしたので僕は安堵しました。
「それにあゝいふの今更隠さなくてつてもいゝんだ。僕も二、三回使つたけれど可也いゝ感じだつたとおも」
「マアッ」
 ルルがレボルバーを拾い上げたので僕とパンピネオはあはてゝ真暗な倉庫室に飛び込みました。バタンと閉めた鉄扉にガスッガスッとレボルバー三十八口径の弾丸がめり込み、僕とパンピネオは倉庫室の隅の暗がりで抱き合って震え上がりました。


 丸一日も経つたでせうか。パンピネオと一緒に僕の持つてゐた乾燥バナナやチューブ式の流動食を貪り食つてゐると、鉄扉の向ふから猫なで声が聞へてきました。
「ネエ、生きてる?妾怒つてなんかないわヨ。そろそろ出ていらつしやい?こつちには美味しい珈琲があるわよ。それに美味しい焼き立てのクッキーだつてあるわ。一緒に午後の紅茶を楽しみませう?」
「珈琲しかないのに紅茶なんか飲めるのかい?それにこんな高空でどうやつてクッキーを焼くんだらう。ルルはきつとお腹がすいてきたんだな。」
「アラ、結構な物言いね!そんな生意気な人はずつと其処に縮こまつてゐたらいいわ!」
 何度か激しく鉄扉をガンガンと蹴る音がしましたが、しばらく経つとまたルルの弱りきつた声がしました。扉をほとほとゝ掌で叩いてゐる様子です。
「悪かつたわ…こつちには…さうよ、あつたかい珈琲も紅茶もクッキーもないわ!でも、さうね。あんた達と楽しいお話なら幾らでもできるわ!」
 僕はパンピネオと顔を見合わせました。
「分かつたよ!じやあ安全な証拠にルルの持つてゐるレボルバーとコルトをどつちも僕らの方に寄越して。さうしたら出ていくよ。」
「マアッ!あんた達は妾を信用してないのね!あゝさうだわ!きつと鉄砲で脅かしてパンピネオと雪夫さんで二人して妾をどうにかするつもりでせう?非日常的な飛行機の中だからさぞ昂奮するでせうね!さうなるくらいなら妾、今すぐ頭を撃ち抜いて死んでしまうわ!今すぐよ!」
「そんなことしませんよ。ルルはお腹が空いてゐるんでせう?だから其んな無体を云ふんでせう。」
 またしばらくしたら鉄扉が弱々しく開いて、レボルバーとルルの隠し拳銃のコルトがサーと床を滑つてきました。パンピネオが涎を垂らしてコルトに頬ずりしました。
「あゝまだルルの温もりが残つてゐる。これは少なくとも二分前までルルの太腿に密着してゐた温かさだぜ。」
「もうそつちに行つていゝでせう?妾、お腹ぺこぺこよ!一日なにも食べずに操縦したら気分だつてささくれ立つわよ」
「この飛行機は自動操縦ぢやないですか」
「煩いわね。一体、どうして此処は真暗闇なの?この釦で電灯がつくのよ」
「あ。明かりがつくんですね。」
 ぼんやりと灯つた機内灯の明かりの下に、ルルがいさゝか窶れた格好で仁王立ちになつゐました。
「さあ食べ物は何処よ?妾は一日なあんにも食べてないんだから。あんた達、妾を殺す気?」
「食べ物ならこの糧秣棚に沢山ありますよ!お好きなだけ食べてください。」
 僕は糧秣棚から食べ物の入つた木箱を引張りださうとしました。が、棚は木箱の占めるべき場所を空けてすかすかに空いてゐました。視界の隅に濃い黄色と黒のまだらの生き物がそろそろと動いてゐました。僕は厭な予感がしました。
「パンピネオ!」
 虎が操縦席に逃げ出しました。うすぼんやりとした青白い明かりの下には、案の定、パンピネオが食い散らした航空糧秣とその残骸の木箱が、足の踏み場もないほど散らかつてゐました。
「全部パンピネオが食つちまつたんだ!」
ルルは事実を悟ると、ウーンと唸つて床に倒れこんでしまひました。
「だつて虎はお前たちより余程たくさんの餌が要るんだぜ…」
 操縦室の方から弱々しい声がしました。
「それ処ぢやないよ。ルルが倒れちまつたよ!手伝つてどうにかしてくれ」
「ばらばらにして食ふのか?」
「ルルを食べるわけがないだらう。どうにか気付けをしてやらないと死んでしまふ」
 パンピネオが黄色い塊となつて操縦室から飛び出し、ルルの青白く褪めた頬にすりすりとすり寄りました。さうして彼女の顔が隠れるほど大きな舌でルルを舐めました。
「ルルは俺だけのルルだよ。雪夫みたいな頭のをかしい童貞が代わりに死んでやつたらいゝんだ。さあ目覚めてくれよ」
 パンピネオが泣きながらルルの頬ぺたをたくし舐めてゐると、その甲斐があつたのかルルがうつすらと目を開け、うつとりした顔で訊きました。
「こゝは何処。地獄なの。天国なの。」
「天国だよ。俺がゐるだらう?」
 ルルは飛び起きるとパンピネオを力のこもつた平手で打ちました。
「ギャウ!」
 パンピネオはふたたび、尻尾を丸めて操縦室に逃げ込みました。ルルは素早く床に目を滑らせて拳銃に飛びつくと、レボルバーを横手に構へて僕の首筋にピツタリと銃口をくつつけました。皮の飛行服の肩が荒く上下し、ルルの眼は殺気立つてゐました。僕はずるずると床に腰を落とし、股間に暖かいほとばしりを覚えました。白く淡い湯気が大気に拡散しました。
「食べ物はないの?妾、今なら人を殺せるわ!」
「あ、ああありませんよ!ぜんぶパンピネオが食つちまつたんだから!」
 ルルが絶望的な色を眼に浮かべて、操縦室に振り向きました。さうしてレボルバーを片手に提げたまゝ一歩ずつゆつくりと外光のさす、明かりの中に歩んでいきました。僕は叫びました。
「パンピネオ!」
 しかしルルは放心したやうに、僕からは見へない、ドアの蔭になつてゐる一点を凝視してゐました。
「見つけた。」
さうして呟きました。
「伯林よ?妾たち伯林に着いたんだわ!」
 操縦席の隙間から黄色い塊が飛び出してルルに抱きつきました。ルルは虎を受け止めきれないで床に仰臥して、されるまゝパンピネオに顔を舐められました。虎は一生懸命、濡れて冷たい鼻先と逞しい腰をくいくいとルルの躰に擦りつけてゐました。
「マア、パンピネオつたら擽つたいワ!お腹が空いてそれ処ぢやないわよ!気を失いさう。」
「腹が減つたのならこれでも食いなよ。」
 パンピネオが毛皮の中からチョコレートやコンビーフの缶詰、つやつやと美味しさうな腸詰などを引張り出してルルのお腹の上に散らかしました。ルルは、今度こそ本気で怒つてレボルバーの角でパンピネオのお凸を殴りました。パンピネオが窮とひと声鳴いて崩れおちました。僕は其の微笑ましい光景を背中に操縦席に戻つて操縦桿を握り、伯林郊外に広々と広がるテンペルホーフ空港の滑走路に向かつて機体を立て直したのでした。