さへずり草紙NEO

旧はてなダイアリーを引き継いでいます。

「ルル伯林へ行く」(上)

夢の中で綺麗な奥様に乗り掛かられて騎馬位で散々に精をやらされてゐましたら、外界からルルに
「雪夫さん、雪夫さん」
 と呼ばれて意識がはつきりとし、パッチリと目が覚めました。薄手のレースのカーテンを通して朝日の強烈な光が目を射りました。僕は目をこすりこすり起き上がりました。
「まだ眠いなア。ルルさんおはよう御座います。」
「雪夫さんたら、いくら射精しても目が覚めないんですもの。困つちまひましたわ。朝ごはんですわよ。」
「御免なさい。」
 僕はガバとベッドから布団を跳ね除けて飛び起きました。ルルに言はれてピジャマのヅボンを見ると、確かに前がしとゞに濡れてゐました。
「ウワア。一体どうしたといふのです。いやらしい夢は見ましたが何うしてルルが知つてゐるのです?まさかルルと」
「フフヽヽヽヽ、ちよつと雪夫さんの精子を採取させていただきましたわ。随分取れましてよ。」
 ルルは若草色のワンピースに下女のやる様な白いエプロンを掛けてゐました。さうして、しなやかに曲げた指先に桃色の衛生サックをぶら下げて、お顔の横でプルンプルンと振りました。
「そ、その中に」
「えゝ、雪夫さんの胤を亜米利加の雨外套にたつぷり頂きましたことよ。」
 僕はルルが手ずから肉体を以て僕の精液を採取したのかと思ふとツイ昂奮して剥き出しのまゝ勃起してしまひました。ルルは眉を顰めてなまめかしい首をそむけると両手で顔を覆つてしまひました。
「イーエ。そんな汚いことする訳がないでせう。パンピネオに遣つて貰ひましたわ。」
 ルルのすつきりと伸びた膝の後ろからパンピネオがのつそりと獣毛でふくれあがつた顔を出して、懐かしい目でしつとりと僕を見ました。「ウヘエヽヽ」僕は頭を抱へました。
「それだけぢやないことよ。お屋敷の地下室で雪夫さんの精液を冷凍保存して、今頃は陸軍戸山学校のバイク便で羽田に届けてゐる頃よ。星製薬の冷凍技術を使はせてもらつたの」
「い、一体僕の精液がなんの役に立つのでせうか?」
「それは機密よ。羽田から飛行機で満州に行つて其処からチベット上空経由で伯林に経由されるんだけど…アラ、妾つたらこんな重大事、口を滑らせちや不可ないわね。」
 うつかり口を滑らせてしまつた、といふやうな失敗顔をしたルルに、ベッドの上で飛び上がつて正座した僕は一生懸命、詰め寄りました。
「僕の精液が何に使はれるか知る権利くらい僕にはあるぢやないですか。」
 ルルが激昂しました。いきり立つた彼女は精液の入つたゴム製品を床に叩きつけると、溶接に用ふる仮面をすつぽりと頭から被つてしまひました。さうして漆黒の遮光窓から僕をハッタと睨んで、むきになつて言ひ募りました。床に叩きつけられたゴム製品からだらだらと生ぬるい精液がゴブラン織りの絨毯に広がりました。
「マアッ。雪夫さんなんぞにそんな権利があると思つて?猿よ、貴方は猿だワ。猿の人権なんか人間は考へもしないでせう。雪夫さんの精液が実験用の雌猿の卵子で受胎しやうがナチス優生学に使はれやうが雪夫さんには関係ないわつ」
「そんな大それた実験に使はれるのですか」
 僕は腰を抜かしました。ルルは失敗つた、といふ顔で目を見開いて、両手で口を蔽ひましたが後の祭りです。
「…さうよ。貴方の精子は大阪天王寺動物園チンパンヂーのリタ嬢の卵子と上手く結合して、ことによると世界で初めての猿と人間の混血児が産まれさうなのよ。さういふことが出来たら、ユダヤ人問題で悩まされてゐるナチス政府にとつてどれだけ福音か脅威か分からないでせう?」


 僕は下半身剥き出しのまゝ、ウワアアヽヽヽヽヽヽヽと喚きながらベッドからルルに飛び掛り、たちまちパンピネオの太い腕でゴブランの敷いてある床に叩き落とされました。頭がくらくらしてゐますと、パンピネオがルルにこつそり
「安心しませう、モウ雪夫の精液も羽田に著いたころでせう」
 と言ふのが耳に入りましたのでガゼン意識をはつきりと取り持ち、ムックと立ち上がると、ルルが「きやあ」といふのを構はずに剥き出しの腕をむんずと掴んで階段をダダダダダダダと降りました。さうして玄関先の車回しに置いてあつた近衛連隊のハーレーダヴィッドソンのオートバイクに飛び乗ると、ルルを後ろの席に無理やり乗せて、ドドドドドドドド、とお屋敷を飛び出しました。パンピネオが弾丸のやうに追いかけてきましたが、フットボールのやうな黄色と黒のだんだらの弾が、やがてサッカーボールのやうになり、黄色い鳥子餅のやうに小さくなつて視界から消え去りました。
「雪夫さん、バイクなんか運転できるの?無計画に飛び出したんでせう?」
「えゝ、数年前にハーゲンベック曲馬団が来たでせう?あのときバイクに乗る熊から教へて貰つたといつてパンピネオが僕に教へて呉れたんです。計画ですつて?僕は僕の精液を取り返さなきやあ不可ません!」
「妾死んだやうなものだわ。」
 ルルはハーレーのあまりの高速に上半身をのけぞらせて恐れをなしたのか、僕の腰に恐る恐る腕を回して抱きつきました。暖かい人体の温もりが背中に感じられました。
「こんなことして雪夫さん、只ぢや済まないわよ。銃殺刑よ。いえ、絞首刑だわ。イエイエ、もつと苦しみ藻掻いて死ぬやうな怖ろしい刑罰で死ぬるわ。今のうち妾を逃がして呉れたら、さうねエ、一発で死ねるやうに計らふことができるわ」
「冗談じやありません。ナチスの大事を知つてゐるルルもキット無事では済まないでせう、僕は死なないしルルも死にませんよ。」
 さう言ふ内にもバックミラーに、たちまち陸軍のサイドカーが二つ、三つ、五つと姿を現しました。
「ホラ、妾を救いに陸軍が来たワ。雪夫さんは死ぬのよ。もう大人しく往生なさい。」
 サイドカーから重機関銃が鈍く重い響きを立てました。機関銃の弾は恐るべき存在感でルルと僕の真横をすり抜けてゆきます。ルルが背後から涙を散らせて叫びました。
「羽田にやつて頂戴!」


 なんとか陸軍のバイクを撒いて羽田に辿りつくと、僕はルルの白い腕を引張つて、ちようど滑走路に停めてあつた飛行機に駆けつけました。飛行機は単発で矢鱈に翼が長く、その翼が赤く塗られてゐました。僕達はブルンブルンとプロペラを回してゐる飛行機の主翼に後ろから駆け上り、胴体に空いている出入り口に身を滑り込ませました。
「ウワッ貴様はなんだ。」
「見れば関係者ではなし怪しい奴。つまみ出して呉れる」
 コクピットから屈強な体格の操縦士が二人飛び出してきて僕を機内から押し出そうとしたので、僕は大音声で吼えて逆に操縦士を飛行機から地上に放り出しました。二人の操縦士は地べたに厭といふほど叩きつけられて窮と伸びてしまひました。さうしておいて僕とルルとでそそくさと窮屈なコクピットに這入ると、ルルが僕の肩越しに計器盤を見渡しました。
「雪夫さん、飛行機の操縦はできて?」
「いゝへ、バイクはパンピネオから習つたけれども飛行機はやつてみないと…」
「ぢやあ死んだ気で妾に任せてくださらないこと?」
 僕を乱暴に押しのけたルルはコクピットの主座席に腰を深く下ろし、操縦桿を握りました。
「これは東京帝大で研究中の航研機よ。イエまだ航研機といふ名前すらついてゐない筈だわ。兎に角、危険でスバラシイ性能を秘めた飛行機なのよ」
 彼女は計器盤をいぢりながらひとしきり昂奮すると、首をひよいと曲げて
「車輪止めを外してきて。外したらすぐに戻ることよ。でないと置いていつてしまふわ。」
 と命じました。
 僕は突然の展開に腰を浮かしましたが、このお話では当たり前のことなのでルルに叱られる前にコクピットを出てすぐの処にある切り欠きから飛び出すと、主翼の上を渡つて地上にころげ降り、あはてゝ両方の車輪の下に噛ませてある車輪止めを取り去りました。僕の頭上を、熱い重さを持った機関銃の弾丸が列をなして通過しました。飛行場に爆音を轟かせて陸軍のサイドカー附きのバイクが乗り込んできました。その後から、鍵十字の旗をはためかせたドイツ大使館のベンツが猛進してきました。僕は髪の毛を逆立てて飛行機の下から主翼に駆け上がると、切つ欠きから機内に飛び込んでコクピットに叫びました。
「きたきたきたきたきた、ルル出て出て弾が弾が弾が」
 僕が叫ぶ間もなく航研機は震動を始めてスルスルと滑走路に歩むと、かたかた軽く揺れながら疾駆しました。さうしてフワリとかろく空に浮きました。僕達が出入りした胴体の窓から恐る恐る下界を覗くと、滑走路に蝟集した帝国陸軍のバイクや歩兵が機に向かつて発砲してゐました。僕は腰を抜かしてコクピットに這いずりこみました。
「下からパンパン打つて来るんだけれど大丈夫でせうか」
「マア雪夫さんはパンパン打つたことがないのネ。ホホヽヽヽヽヽ。此の飛行機だつたら上昇力がすばらしくいゝからアンナ鉄砲玉なんかもう届かないわ。それに妾の腕前で戦闘機もすぐ引き離してしまふもの。ホラご覧なさい」
 ルルが言ふまゝにコクピットの横の窓から後ろを覗くと、後ろから我々を追いかけてきたらしい単発単葉の飛行機の編隊がどんどんと遠ざかり、芥子粒のやうになつて消へてしまひました。


「それで僕の精液は一体どうなるのでせう」
 ルルは「仕方ない」といふ表情で僕を見ると、操縦桿を自動操縦に切り替へて狭いコクピットで、副操縦席にをさまつてゐる僕と正面から向かい合ひました。ルルは深い茶色の瞳で髪を撫であげるとボツボツ言ひました。
「雪夫さんの精液は此の航研機に積んである。この飛行機は帝大で長距離飛行世界記録を拵へるために開発中なの。でも雪夫さんの精子ナチスの生物化学研究班が欲しがつてゐて、特に枉げて輸送するために完成を急いだのよ。本当はまだ完成されていないわ。この機が完成したらキット世界を驚かすことでせう」
「では僕の精液を頂戴していきませう。パラシュートで降りるから心配なんか要りませんよ。」
 僕は深いコクピットから胴体後部に行こうとしました。ルルがすばやくワンピースの中からピストルを握り出して、申し訳なさゝうな眉で僕に突きつけました。
「そんな事をされちやあ妾、困るの。」
「やわなワンピースの中に一体どうやつて…。」
「其んなことはどうでもいゝわ。これは天下のピス健から貰つた拳銃よ。一寸古いからいつ暴発するか分からないわ。大人しくすることね。」
「でもルルは僕の精液にどうしてそんなに拘るのですか。別にルルには興味ないでせう、ナチス優生学なんか。」
「あら。妾にだつて野心はあるわ。雪夫さんの精子だけそんなに学問的に面白い目に遭はせて堪るもんですか。イエ、嘘よ。帝国臣民の精子を勝手に実験になんか使はれちや妾だつて憤慨するわよ。妾、伯林に乗り込んでさういふ計画を木つ端微塵にしてしまふの。」
「然し陸軍も一口噛んでいるんでせう?さつき僕等を撃つてきたよ。」
「妾の屋敷も遅かれ早かれ連中のスパイに握られる処だつたわ。妾の親衛隊の中野学校だつてまだ安泰ぢやないんですもの。でも陸軍の連中が独逸大使館と通じてゐたのは予想外ね。」
「昭和十一年は未だ混沌としてゐるんですね。」
「さうよ。モウ一つ本当のことを言ふとお国のことなんか何うでもいゝワ。妾、伯林でひと旗揚げるの。雪夫さんに邪魔されちや堪つたもんぢやない。だから大人しくすることね。」
 僕は観念して深い息を突くと、副操縦席に沈み込みました。気流に乗つてゐるのか逆らつてゐるのか機体が上下に荒々しく揺れます。驚異的な航続距離を誇る真赤な翼の航研機は、伯林を目指して雲の中を只ひたすら飛び続けました。