さへずり草紙NEO

旧はてなダイアリーを引き継いでいます。

1*シャンクレールの夜

1
夜も更けて、東京の郊外よりウンと郊外のダンスホールも、煌々と輝いたまゝ、踊りのお終いを迎へました。汗ばんだ躰で蕨町のボールルーム「シャンクレール」の扉を排すると、氷の粒を散らかしたやうな星空の濃紺色の夜空が広がつてゐました。振り返ると、先ほどまでの昂奮も醒めやらぬやうに眩く輝く白亜のダンスホールが屹立してゐます。ジャズバンドが追ひ出しの「蛍の光」を演つてゐるやうです。
 僕はルルと何んでもない事で喧嘩をしてお屋敷を飛び出し、浅草のビヤホールに貼つてあつたチラシに誘はれるまゝに蕨町などといふ田舎にまでタクシーのルノオを飛ばしてやつて来たのでした。ダンサーをチケットで買う勇気もなく只ぼうぜんとダンスを観てカクテルを飲んでジャズを聴いてホールがハネたあと、僕はまつたく無常感に襲はれて、シャンクレールの前の芝生にドウッと躰を投げ出して吸ひ込まれさうな空と対峙しました。首が痛くなるほど上を見上げるとシャンクレールの白亜の灯りが白く団子にぼやけ、星のひとつひとつがそれぞれ勝手な方向に不規則にぶれてゐました。星座にもならないやうな無数の大小さまざまな星々はそれぞれに白く滲んで、激しい軌跡を描きました。

「まア、雪夫さんぢやないですか。其んな処でなにしてるんですかッ」
 露を宿した芝生に寝つ転がつて甘つたるい感傷に浸つてゐたら、いきなり何処からか声をかけられたので、僕は飛び上がつて、キョロキョロしました。
「アーラ、こつちよ!こつちよ!」
振り仰ぐと、シャンクレールの白亜のデコな建物のバルコニイに人影がありました。
「生きてたのね!よかつた!これから皆んなで打ち上げだからあンたも入つてゐらつしやい。なあに構はないわ!」
 頭の中身がボーとしたまゝの僕は云はれるまゝのそのそと起き上がると、誂への服の埃を払つて、ふたゝびシャンクレールの扉を排しました。
 ボールルームは営業中の人いきれを忘れて、先ほどまでのダンス客で一杯のときとはまた異なる不思議な雰囲気で満たされてゐました。帰り仕度をしてゐるダンサー、ひと仕事終へて煙草をくゆらせてゐるダンサー、バンドマンとなにかしらこそこそ話し込んでゐるダンサー、支配人に掛けあふ男、小競り合ひする楽士。空のグラスや飲みさしの麦酒が其のままになつてゐるテエブル。すべてが閉店後のダンスホールの弛緩した裏側を露呈してゐました。
 しばらく所在なくボーと佇んでゐると、ナイトドレスの気さくさうな可愛い娘がステージの下手から飛び出してきて、すこしホールを見渡したかと思ふと僕のところに一直線に来ました。荒く息をつきながら、ルルみたやうな断髪が乱れて顔にかゝつてゐます。グンと近づいてきた娘は綺麗でした。
「あなたでせう?死にさうな顔をしてゐた人。だつて分かるわ、今でもさうですもの!妾、ホールがハネたからバルコニイで涼んでゐたんだわ、すると芝生に人が倒れてるでせう?吃驚して声をかけたのよ。生きてゝよかつたわ!あら、妾ばかり喋りすぎた」
「はじめまして」
「あら!御免なさい!妾つたら。いつもそゝつかしくてお行儀が悪いつて…さうだわ、自己紹介しなきやね。妾はこゝのジャズバンドで歌つてゐる星子といふのよ。…貴方は雪夫さんネ」
「エッどうして僕の名前を」
 僕は驚いて弾力の効いたダンスホールの床に尻餅をつきました。
「あはゝゝ、雪夫さんの作文は全部読んでてよ?ルル子さんと喧嘩別れしたんですつて?」
「其れはまだ書いてないのだけど…どうしてご存知なの?」
「いゝぢやない。お話の中くらいは何んでもありじやないと面白くないことよ。」
 星子は衣装の透けたナイトドレスからスクッと伸びる白い腕で僕を引き揚げてくれました。さうして愛嬌のある瞳に笑みをこぼしました。
「妾は雪夫さんの知つてゐることを吸収したいだけだわ。」
僕はベルリンでの忌はしい記憶にキッと身を固くしました。
「君もナチスなのか」
「いゝへ、違ふわ。でも今は内緒よ」
「僕の廻りには内緒な人が多すぎるんだよ。奥様もルルもさういふ訳の分からないことを…」
 僕は頭を抱へてしまひました。
「ホラ、さうして頭を抱へこむ。それだからダメなのよ、陽気でゐなけれあ。さあ、打ち上げが始まるから唄いませう、踊りませう!」
 星子が楽器の手入れをしてゐる楽士や支配人の間を駆けまわつて何か話をしてゐたかと思ふと、止まつてゐたミラーボールがふたゝび廻りはじめ、サックスの柔らかいサウンドがオープニングを告げてゐました。いつもならダンスホールのハネ(終了時)によく演奏されるベニー・グッドマン楽団の「さやうなら “Good Bye”」です。ステージの裾のカーテンの蔭でドレスをたくし上げ、肌を透かしたストッキングの靴下止めをキュッキュと直しながら星子は云ひました。
「いゝこと?ダンス客にはお名残り惜しいグッド・バイもこゝでは楽しい夜の始まりなのよ、覚へておくといゝわ」
 お客の居ないボールルーム。それはなんといふ贅沢な空間でせう。
星子はジョーゼット地のやはらかさうな白いナイトドレスの裾を翻してステージに駆け上がると、ぱっとヒマワリのやうな笑顔でお客のゐないホールに話しかけました。
「妾、唄ふわ。唄ふわ。朝の唄を。夕べの唄を。静かに暮れてゆく夕焼け空。あゝあの夕空を見てゐると、なんだか心がときめくわ。ねぇ貴方、今宵あたしどんな夢をみると思つて?」
 ジャズバンドが星子の台詞に合はせて静かに「青空」を奏ではじめました。
 僕は頭を撃たれたやうにフラフラとまばゆいステージに歩み寄りました。
星子はセンチな台詞とはウラハラに、砕けたジャジーな一九三六年型の”My Blue Heaven”を唄ひました。

 二人で仰ぎ見る 茜の夕空
 辿るも嬉しや 我が家の細道
 今宵また見る 楽しい夢も
 愛のひかりに 紅く燃えて
 あしたも青空 嬉し青空 

「台詞はお春坊…市川春代の吹きこんだそのまゝよ。センチでせう? えゝ笑つて頂戴。デモ都会の綺麗な満月の下で夢を見たつて罪ぢやないぢやない?妾、斯ふしてステージで踊りながら歌うのが一番の夢なのよ!」
「笑つちやいないよ。僕だつて夢をうつゝに生きられたらそれでいゝ」
「もう戻れないわよ」
「もういゝよ」
「あら!」
 星子はスヰートなジャズバンドの奏楽のたゞなかで踊りを止して、怖い顔で僕の肩をむんずと掴んでかしらを烈しく振りました。
「雪夫さんやけつぱちになつてゐるわ!そんな雪夫さんは厭よ。踊つて愉快にしなきや!」
星子はむきだしの腕で僕を突き放すと、よろけた僕の手を掴んで、思ひきり派手に踊り始めました。僕はクルクル廻りながら
「判つたよ!判つたよ!」
と叫びました。ところが二人の廻転する力が強すぎたのでせうか、止まらうと思つてもクルクルと止まらないまゝ、僕と星子はステージの袖の筒になつたカアテンに勢ひよく飛び込んで、折り重なつて倒れてしまひました。
「おゝ痛い。重いから穂――」
 手を床に突つ張つて半身を起こした僕の口を星子の掌が塞ぎました。彼女の大きな瞳がすぐ目の前にありました。その悪戯つぽい目がふっと笑みを消して瞳孔を広げ、ジッと僕を見詰めました。さうしてゆつくり瞼を閉じると、艷やかな形のよい唇を尖らせて僕の顔面に接近しました。突如として僕の胸に火が着いてボッと燃え盛ります。僕は唇を求めて躰をバネのやうに弾ませ、野獣となつて穂士子を両手でかき抱きました。が、腕の中に残つたのは何もない空間でした。穂士子はスルッと猫のやうに身体をかはして薄暗いカーテンから抜け出たのです。穂士子を逃して辺りをキョロキョロした僕に、ユラリとカーテンを揺らして顔だけ覗かせた彼女はニコニコしながら云ひました。
「アラ雪夫さん、何うなさつて?妾が欲しいならもつと生きることね。」
「僕は生きてゐるよ。」
「駄目よ。死んでるわ。だつて貴郎は過ぎ去つた者を見詰めてゐる。貴郎はたゞドキドキしたいだけなのよ!」
「貴女に凝視められたらドキドキもするでせう!」
「まあお上手。貴郎は相当に仕込み甲斐がありさうね。ホホヽヽヽ」
 区切られた丸く狭い空間を遮つてゐたカアテンがジャッと引かれると、其処にはピッチリした黒の肉襦袢に身を包んだ官能的な星子が立つてゐました。
「あれえ。いつの間に。」
悪魔的なキラキラした紋章を浮かせた肉襦袢の星子は僕の首根つこを掴むと、ステエジまで引つ張つてゆき、濡れ雑巾を放るやうに板の間にべちゃつと叩きつけました。「ギャッ」と僕が叫ぶのを心憎さうにニヤーと笑つて見届けると、彼女は鋭くジャズバンドに向かつて叫びました。
「楽士はじめ!」
八人編成のコンボがグルグルとキャブ・キャロウエイの「ザ・マン・フロム・ハレム」をプレイし始めました。星子はモヤシのやうに萎えきつた僕を格好のいい脚で蹴り転がしました。僕は其の手荒な扱ひに思はず勃起してしまひました。すると、その躰の変化を星子が目ざとく見付け、素足の踵でグリグリと陰茎を踏みつけにしました。
「雪夫さんはコンナ虐待で昂奮していやらしい気持ちになつてゐるわ!それが過去の恋愛モドキの遺物でなくて、なんでせう!」             
「い、いへ!こ、これは星子さんの素足の踵でグリグリされて反応してゐるだけです。他の女なんて一ミリも考へてやゐないんですよう」
星子はやゝ大きくなつた陰茎を踏みつける足許をすこし緩めて、満更でもない顔つきをしました。
「あら。じやあ妾で勃起してゐるのね。間違ひはないわね?」
「ハイ」
星子は顔面をほんのりと紅くして、柔らかい足でくねくねと不安定に逃げ惑う陰茎を踏みしだきながら、軟化した態度で訊きました。
「あの、其れは雪夫さんが妾を好きだと云ふことでいゝのかしら?」
「初めて遇つたときから」
「デモ雪夫さんの過去が過去でせう?面倒くさい女がゐるやうな殿方は…」
「貴女みたやうなマトモな人がゐたでせうか? 知つてゐるんでせう?」
「…えゝ」
星子が指先に力を入れたので陰茎が悲鳴をあげました。
「星子さんのやうなステキで可愛い女性はゐやしませんよ!」  
彼女の瞳がキラキラと輝いて、僕を凝視めました。             
「ぢゃあ妾、雪夫さんの目ん玉を舐めて差し上げませう。」
「ええつ。何んだか怖いなあ」
「文句を言はない」
星子は僕の頭を両手でしつかり抱へこむと、真面目なやうな冗談のやうな愛嬌の溢れる眼差しをしました。さうしてゆつくり瞼を閉じると、唇を尖らせて僕の顔面に接近しました。視界と嗅覚が星子で遮られます。さうして、蠱惑的に濡れた舌べろがワイドに迫つてきました。僕は思はず目をギュッと強く閉じてしまひました。ジャズは最高潮に高まり、僕の動悸も破裂しさうに高まりました。



2
 こはごは目を開けると、僕は一等車の窓際の席で水のやうな窓硝子に頬ぺたをくつ着けてゐました。硝子を通じて静かな列車の振動が感じられます。環境の劇変に眩暈を覚へながらのろのろと頭を持ち上げると、昨晩とは打つて変はつてクリーム色にオレンジ色のストライプが入つた爽やかなサテンのドレスに身を包んだ星子がコロコロと笑ひました。
「雪夫さん、何うしたのかしら?」
僕は夢を見てゐたのかと思ひました。
「夢ぢゃないわ。雪夫さんと妾はいま何処にゐるか分かるかしら」
「さつぱり分かりません。処で一体どんな魔法を使つて…」
「妾たちこれからバカンスにいくのよ。行楽気分のトッテモいい天気でせう。そつちの方がよつぽど夢の中のやうでなくて?」
星子は遮るやうにはしゃいで云ひました。胸元の小粒な真珠とアメヂストをあしらつた大ぶりな首飾が揺れると朝日を受けて輝き、一等車両の壁に何条もの光を投げかけました。クルッと外を見ると、静かに景色が疾駆する硝子窓の外には青空が広がつてゐました。さうして、空の境目も不分明にキラキラと細かい小波を無数に浮かべる海が広がつてゐました。
「いま汽車が走つてゐるのはどの辺りなんですか?」
「特急富士よ。だから…」
「西下してるんですね。大阪でせうか?それとも京都…」
「もう過ぎたわね。ああ、モウ下関に着くわ。」
するすると音もなく下関のホームに着いた特急富士は、黒煙をあげて再びのつそりと動きはじめ、僕たちを残して、加速を加えながら視界から去つてゆきました。ホームには行李を背負つた行商のお婆さんや家出人らしい断髪の少女、臨月の妊婦、朝鮮半島から来たと思しい青年に投資の冊子を見せながら話しかけてゐるいかゞはしい男、詰襟の学生、目つきの鋭い刑事らしい男、煙ですゝけた制服の赤帽などが雑多にたむろしてゐました。
「こつちよ」
カツカツとエナメルのヒール靴で歩く星子のあとに付いてゆくと、漁港に出ました。何本もの帆桁やら垂れ下がるロープやらの上空を鷗がひらひら舞つてゐます。海に向かつて彼女が二本の指を口に咥へて高くピーと口笛を鳴らすと、暫くは何も起こらないのでナアンだと思つてゐたところへ、何処からか異様な物音が聞こへきました。
「こつちだワ」
カッカッと小走りに駈ける星子に手を引つ張られてゆくと、港でも人気のない端つこの海原に、鯨のやうな黒い物体が真白な潮に胴体を洗はれて海面から浮き上がるところでした。
「これは、せ、潜水艦」
「さうよ。伊号第六十八潜水艦。おつつけ艀で水兵さんが迎へに来るわ」
艀からこはごは潜水艦によじ登り、狭い船内に飛び込むと、早速ネイビーに蹴飛ばされました。
「貴様ッ密航する積りだらう」
蹴つ飛ばされた拍子に鋼鉄のドアーにゴン、などとぶつかつたので頭をさすりさすり起き上がつたところへ、タラップを伝つて恰好のいゝ脚線をストッキングに包んだ星子が降りてきました。僕を蹴飛ばした少佐の潜水艦長がキッと居ずまいを正し、カッと踵を揃えて穂士子に敬礼しました。
「アラ栢原艦長。お元気だつたかしら?」
「ハッ星子様に於かれましては、お元気さうで何よりであります!」
「殿下なら栢原に宜しゆうと仰つてゐたことよ」
「どちらの殿下でありましたでせうか」
「高松のよ。」
艦長は感極まつて白いネイビーの略礼服の袖を顔に押し当て、鉄板の床に崩れおち泣き出してしまひました。鉄板の床に涙の地図が広がつてゆきました。
「いゝからも少し居心地のいゝところに案内して頂戴。妾の大事なお客の雪夫さんが痛い目に遭はされたんだし」
星子が苦情を云ふと、ネイビーの水兵が寄つてたかつて星子と僕をチヤホヤして潜水艦の奥の間にある艦長室に案内して呉れました。艦長室とはいつても狭苦しい空間のソファに穂士子と詰め詰めに座ると、すこし暑苦しいやうです。僕は上気してしまひました。
「あの、此処は少し暑いやうですね。」
「えゝタービン機関が足の下に通つてゐるんだもの。暑いのは当たり前だワ」
星子は胸元の開いたサテンのドレスをわざと大きくパタパタと拡げてみせて、甘い女の匂ひを室内に充満させました。理性を崩すまいとしても、どうしても胸元の或る楽しい予感を伴つたなめらかな隆起をもつ白い肌が鮮やかに目に入ります。
「もうちよつと離れて貰へないでせうか」
「アラどうして?妾のことがそんなに嫌ひなのかしら?妾がつかりしちまふわ!」
「いゝへ其んな!星子さんのことをそんな。此処があんまり暑いから」
「だつたらいつそ、もつと熱くなりませうよ!」
星子は隣りから抱きついてきて、僕の上半身をオーガンジィの透けた短い袖から伸びるすつきりした腕で雁字搦めに抱きしめてしまひました。ボクの腕に粘土を潰したやうな感触が暖かく感じられました。彼女は斜め下から僕に蠱惑的な潤んだ瞳を寄せるのでした。
「ねぇ」
僕は躰の上に乗つた星子の柔らかい太腿の下で勃起してしまひました。穂士子はすこし悪戯つぽい眼をして、僕の瞳を覗きこみました。
「妾たち、まだキスしてないわ」
僕は蕩ける心地で星子を抱きしめ、弾力のある胸の抵抗を感じながら陶然と目を閉じました。彼女は果たし状を開いたやうに野性の気を全身に漲らせて、紅の唇を接近させます。
唇を尖らせて其の紅い唇と重なるか否か、彼女の熱い鼻息が頬に感じられたそのとき、ゴンゴンとドアーがノックされました。星子はパッと僕の膝から飛び退くと、三寸ばかりも僕から離れて身を正しました。艦長が断はりもなく闖入しました。艦長は室内の熱気に圧されたのか半巾を取り出して汗を拭いながら、故意らしく暑いねぇ暑いねぇなどと笑つて云ひました。
「星子様、着きましたよ」

暗いタラップを上がつて潜水艦の天辺の昇降口から半身を乗り出すと、新鮮な空気が肺いつぱいに流れ込んできました。生き返るやうな思ひで深呼吸をしてゐるとお尻にコツンと星子の頭が当たつたので僕はあはてゝ外側のタラップから、鯨の背のやうな甲板に降り立ちました。艦長は僕の天幕を張つたヅボンを見て状況は把握してゐた筈ですが其のことには何も触れずに、ポケットの中でピストルを握つた手をわなわなさせながら、紳士的にニコニコと笑みを湛へて星子と僕を見送つてくれました。星子が握手しながら「また会ひませうね、」と云ふと、艦長は
「えゝ靖国でお目にかゝりませう」
と凛々しく答へました。

 一面の黒いほど青い海に抜けるやうな空が広がり、かき氷のやうな入道雲が聳へてゐました。さうして伊号潜水艦の浮いてゐるスグそばには島の岬がありました。すでに潜水艦の傍には艀が迎へに来てゐました。僕は星子に続いて甲板に立つた栢原艦長の手助けで艀に身を移しました。艦長は艀から離れるとき、僕にだけ聞こへる声でこつそりと「いゝ気になるなよ」と云ひました。僕はすこし心が痛むのを覚へましたが、そのあと星子も艀に乗り移つてきて無邪気に「小豆島よ!」と叫んだのに調子を合はせて燥いでみせました。艀はドンドン潜水艦を離れました。
「あんな厭な船、沈めばいゝのに。」
「そんなこと云ふもんじやないわよ」
「厭なこと云はれたから」
「妾たちに嫉妬してるのよ」
 もう一度振り返ると、伊号潜水艦はほんとうに海面から沈んで影も形もありませんでした。

 島の小さな船着場に着く頃には僕は厭な気持ちも晴れ晴れとしてしまひました。揺れる小舟から桟橋に飛び移るや、僕は星子の手を引張つて砂浜に走りました。
 長い長い海岸線に沿つて走ると、足許を白い波の子が攻めては退きました。星子はこけつまろびつしながら、遂に砂浜にぺたんこに座り込んでしまいました。
「雪夫さんはあんまり乱暴だワ、一寸待つて呉れてもいゝぢやない!」
僕は星子の手を掴んで一心に走つてゐたはずが、彼女を遥か後ろに置いてきぼりにしてゐたことに我ながら驚きました。さらさらした明るい砂に、星子がべつたりと腰を据へてゐます。扇情的なオレンヂ色の水着に僕はドギマギしてしまひました。
「あの、いつの間に水着に…」
「いゝぢやない、こゝは雪夫さんの空想世界よ。何があつてもおかしくはないのよ。」
「じやあ此処にゐる星子さんも僕の妄想の産物なのかい?」
「サア。それは貴郎が確かにしてよ」
1936年型の背ぐりの深い水着の星子のすらりとした腕を引つ張り上げると、僕は彼女を抱き上げて、砂浜に深い足跡を残しながら絶好の海辺を探しました。
肉感を両腕のなかに堪能しながら漸く抜群な景色が眺められる岬の突端に着いたときには、陽はもう落ちかける頃でした。
「遅いわよ」
「御免なさい。コンナ小さな島なのに、絶景を見つけるのにずいぶん時間が。」
「故意とでせう?」
キラキラした小波を無数に浮かべる海に面してふたりで座り込むと、海面に火柱を立てたやうな蜜柑色の太陽がゆつくりと傾いてゐました。星子が傍らのポーダブルの蓄音機をグルグル回して盤面に針を落としました。
「いつの間にそんなものを!」
「野暮なことは云はないで。雪夫さんの妄想の中でも妾は妾だわ。」
蓄音機から流れてきたのはガイ・ロンバード楽団が演奏するスロースヰングの「夕陽に赤い帆」でした。そのしみじみする旋律のつゞく間に、水平線に陽が沈み込んでゆくのを星子は涙をこぼして見入つてゐました。
「この夕映へに船が帰つてくるとするでせう。するとその船には妾の恋人が乗つてゐるのよ」
「僕は嫉妬するね」
「ものゝ例へよ。美しい景色でせう?」
「平和だね」
じつさい美しい光景でした。僕は、この瞬間を共有できたことに感情を突き上げられ、思はず彼女を抱き締めました。夕陽のオレンジ色を映す潤んだ瞳が僕を捉へました。僕は大胆に唇を奪うべく、吸ひ寄せられるやうに星子のうつとりした顔に接近しました。まどろむやうに緩んだ頬は上気し、笑みを湛へてゐた眼はとろんと情に濡れて僕を見据へてゐました。涼やかなサテンのドレスの袖から僕の首に巻き付いた腕は、潮風を帯びたのか昂奮のゆへかしつとりと熱く火照つてゐました。唇を揃へて睫毛を重ねた彼女に、僕も目を閉じました。お互ひの心音とさゞ波だけが聞こへて、あと一瞬のちにはふたりの唇が交錯しあうやうに思はれました。



3
僕はフト気がつくと露を帯びた芝生に躰を横たへてゐました。頭上には満天の星がちかちかと輝いてゐます。さうしてかま首を持ち上げると、シャンクレールがありました。
その二階のバルコニイには黒い人影がありました。
「まア、誰なの?其んな処でなにしてるんですかッ」
夜目に慣れた目には、その人がダンスホールの享楽の匂いを身に纏つたまゝ心配と好奇心をいつぱいにしてゐるのが見て取れました。星子の声だと僕は直感しました。僕は、新しい未来を確信して手を振りながらシャンクレールの玄関に向かひました。