さへずり草紙NEO

旧はてなダイアリーを引き継いでいます。

銀座ホールのバレンタイン

1
チュンチュンといふ雀の声に誘はれて目を覚ますと、目の前が真暗でしかも布団をかぶつた下半身にまつたりとしてゐながら切迫した尖鋭的な快感が押し寄せてゐました。手を伸ばして確かめやうとしたら、両手も縛られて既に痺れてゐます。熱く包み込まれるような感覚に襲はれて遂に我慢もならず激しい脈動とともにドクドクと射出しながら僕は恐怖しました。
「うわあゝゝゝ」
「アラ、起きましたの?」
 暗闇で声がしました。昨晩、蕨町のシャンクレールで聞いた声です。
「あ、あ、星子さん。これは」
「気持ちいゝかしら?雪夫さんが望んで仕たことなのよ?」
「え?え?僕もその、アノ星子さん…」
「もどかしいわね!目隠しと手錠は取りますわ」
 暗闇を人の動く気配がして、パッと周りが明るくなりました。いつものお屋敷の僕の部屋で、昨夜の星子の明るい顔がニコニコと飛び込んできました。
僕は下半身を剥き出しにしたまゝ、心が蕩ける思ひでした。
「それぢやあ星子さんは…」
 星子は気が狂つたやうにホーッホホホホと躰を二つに折つて笑ひ出しました。
「雪夫さん本当に酔払つてゐたのね。ヨーク御覧なさいな、パンピネオよ。朝の紅茶を持つてきたからおあがり!」
 其処でやつと剥き出しの下半身を見ると、布団だと思つてゐたのはパンピネオで、彼は太腿を抱へ込んで寝ぼけ眼で僕の陰茎を思ひ出したやうにぺちやぺちやと舐めてゐました。
「ギャアアアヽヽヽ」
 星子は床を転げて笑ひこけてゐましたが、やうやうのことで立ち上がると白い細やかなレエスがついた桃色のワンピースの裾の埃をパンパンと払つて居ずまひを正しました。
さうして僕の顔の真ん前まできれいな白い顔を寄せました。
「それで妾は此処に住まつてもいゝ訳?」
 僕は慌ただしく昨夜のことを思い返しました。
シャンクレールの前庭で訳の分からない夢を見てふたゝびダンスホールに飛び込んだ僕は、ルルが飛び出した後のお屋敷に星子を住まわすべく、熱心に彼女を口説き落としたのでした。
「妾、しやべる面白い虎が居るつて云ふからツイふらふらついて来たんだわ。雪夫さんの為ぢやなくつてよ?」
 僕はウンウンとぶるんぶるん首を縦に振りました。ルルは置き手紙とパンピネオを残したまゝお屋敷を飛び出していつて行衛も判りません。
「だだつ広いお屋敷を案内されて、此処はまるで雪夫さんの心の中みたく空虚で寂しいワと妾が云つたら、雪夫さんは僕の隷属する女主人がこのお屋敷には必要だと口説いたのよ!マゾッホだわ変態だわ。だから妾、パンピネオは貴男の中でどんな存在なの?と訊いたの」
 星子はぱつちりした瞳に笑みを浮かべた顔面を僕の顔にグッと接近させました。
「で、貴男たち、ホントウにそんな関係なの?」
パンピネオが首をもたげて、差し込む日光に目をしよぼしよぼさせながら懐かしい目で僕を眺めました。僕は粘つこいパンピネオの秋波から目を逸らしてグイッと渋い紅茶をひと息に飲み干しました。
「否!酔つ払つて何ふしたのか憶へてないけれど此奴とそんな…ありません!断じて!」
「なァんだ、さうなのか」
パンピネオはちよつと悲しさうに眉毛とヒゲをたらんと下げて、のそのそとベッドを降りると陽だまりで丸くなりました。星子はその後ろ姿を悲しげに見守つてゐましたが、
「ほら可哀想ぢやないこと?夜中にリキーだつたパンピネオはあれだけビンビンに元気だつ…さうだリキー宮川さんつて正体は虎なのね!妾の楽団で唄つてほしい位だワ」
「トラに頼んでみたらどうだい?」
「本気でさうしようかしら。」
マイセンのティーカップや砂糖壺を下げて部屋を出た星子は廊下で「アッ」と叫んでガチャガチャと持ち物を取り落とし、いまいましさうにドアをガンと開けて首を突き出しました。
「雪夫さんは冗談と本気の境目が解らないわ!いけ好かない人!」


2
 夜になると、昼間とは違つた顔をダンスホールは見せます。ことに二月の十四日ともなると普段の倍のダンス客が見込まれるといふので、いつもより雑然とした雰囲気にも活気が漲つてゐました。昼の営業でステージを終はつた対バンがガヤガヤと楽屋をはけると、赤い三角帽をかぶつたダンサーやボイがホールの掃除をしたり、飲み物の仕込みを始めます。支配人と用心棒がホールの隅で何か怪しげな相談をしてゐます。そのアンニュイなざわめきを抜けて、星子と僕はなるだけ人目につかないように虎のパンピネオを楽屋に引きずつてゆきました。それでも白いジャケツのボイが虎の面相に「わつ」と驚いたり、出入りの珈琲豆屋の娘を卒倒させたりといふ小事件はありましたが、なんとか小さな楽屋にパンピネオを詰め込んだらこちらのものです。
「そろそろ8時だよ。タキシードを置いておくからね。」
「歯ブラシと練り歯磨きも置いといてくれよ。牙がなんだか粘ついて厭なんだ」
 僕は星子にも注意を与えました。
「パンピネオがリキーになるところは見ない方がいいよ。外に出ておいで」
「アラ?どうしてかしら?妾、ちよつとやそつとのことは大丈夫よ?だつて二村定一さんと歌舞伎の子役の中村正太郎ちやんが松竹座の袖でえげつない体位のやり方してるのも見て平気だつたもの、大丈夫よ!」
「さういふ意味のグロぢやないんだけれどなぁ」
「大丈夫よ。雪夫さんとお猿のリタ嬢のエロフヰルムで二十八体位まで数へた妾よ」
 僕はいくぶん傷つきながら楽屋にパンピネオと星子を残してバーカウンターでミリオンダラーを舐めてゐました。
五分ほどしたところで楽屋の扉を引つ掻くやうな音がして、入れ替りにタキシードのりゆうとしたリキー宮川が現れると、気障な笑みを顔に貼り付けて云ひました。
「星子さんなら泡を吹いて気絶してるぜ。」


3
「星子さんは銀座ホールにも出てたんだね。」
「えゝ妾は別にシャンクレールの専属ぢやないから。東京市内のホールなら大概しつてるわ。ここはちよつとお客もバンドも荒つぽいけど、その分気持ちのいゝスヰングで唄へるのよ」
「ぢやあなにも蕨町まで行かなくてもよかつたんだ」
「ええご足労…妾は何処ででも歌ふシンガーの星子よ!デモどうして星子なのかしら。妾、気がついたときには星子だわ」
「星はスターでせう? キラキラしたスターには星が似合ふから」
「まぁ」
バーカウンターで二人並んでカクテルをちよびちよびしてゐる間にも、背後では擦れ違ひざまにぶつかつた筋者のダンス客とジャズマンがポカポカ殴り合ひをしたり、品の悪さうなダンサーがサラリーマン客のネクタイを締めあげてテケツを奪つたりなどしてゐました。星子はちよつと顔を寄せてひそこそ声で云ひました。
「知つてること?昭和8年だから今から4年前のことだわ、明大のハドラーが此処でカルモチン自殺したのよ。それ以来、馬に乗つた幽霊が出るつて噂だわ。」
 僕は震へあがりました。
「それから同じ8年に例の斎藤茂吉先生の奥様やら上流夫人とこゝのダンス教師のエロ事件があつたでせう?あれで自殺した或る奥様も夜な夜なダンス客に交じつてゐるさうよ。」
「そ、そんなこともあつたのですか」
 僕は恐怖のあまり小便を漏らしてしまひさうでした。
「それ丈ぢやないわ。銀座ホールで唄つてゐた、さう妾の先輩ね。博子さんていふ人が国華ホールのトランペットの中村憲二さんに騙されてやつぱりカルモチンで死んでね、ステヱジで唄つてゐると悲しい目つきで凝つと見つめてるの、さう、雪夫さんの今座つてゐる辺りをよ!」
「止してください!」
 僕は腰を抜かして洋パンツの中に勢ひよくシャーと小便をしてしまひました。星子はあまりの尿意に少々勃起したまゝヅボンの中でとめどなく放射する僕を凝視しながら、これはいゝものを見たといふ風に瞳を潤ませ、陶然としてゐました。
「星子さんー出番ですよ」
バンドマンが呼びにくると星子は我に返つてニッコリ笑ひ、ドイツ式のお呪いに鼻と鼻をくつつける挨拶をしました。さうしてエメラルドグリーンの目にも鮮やかなドレスを翻してステージ口に走つていきました。入れ替わりに僕は屈強な用心棒にぶら下げられて、トイレに放り込まれました。


4
フロントラインのトランペットとトロンボーンがサックス陣を従へて前奏を吹くと同時に天井のマジックボールがゆつくりと回転して、曖昧な輪郭のスポットを四方に放ち始めました。その間にエメラルドグリーンの星子がステージに出てきました。
「サア、今日はバレンタイン•デイ。恋人たちが胸を合はせて踊る宵に、ドンナいい唄を送りませう…白い小さな月がいつぱい降るやうな雪の夜にはかへつて『月光価千金』がいゝかしら? 恋人たちの夜に永遠の満月を…チェリオ!」

 月白くかがやき 青空高く
 梢の香りを我によせて
 寂しさ 悲しさ 心に消えて
 楽しくときめく胸の思い
 ああ、ああ、瞬く星は
 わが心に語る うるわしの夜よ
 青空にかがやく月の光は 
 楽しき思いを我に寄せる

 伴奏の間に星子はテナーの田沼恒雄さんとトランペットの南里文雄さんをお客に紹介し、リキー宮川にヴォーカルを替はりました。リキーはサンフランシスコ仕込みの英語で気障に歌いあげて、最後の南里さんのラッパが終はるか終はらないかにダンス客から盛大な拍手を浴びました。
 「妾、うつかりさんだつたワ。雪夫さんがあんなにしつこくお屋敷に来るやうにつて、其れはリキーみたいないゝジャズシンガーを妾に引きあはせるためだつたのね!妾すこし雪夫さんを見損なつてゐたわ、雪夫さんはすこし頭のをかしい可哀想な人だから劣情で妾をお屋敷に引き込んで気持ちの悪い悪戯や拷問を沢山されるかと思つてたでせう、なのにコンナ芸術心の豊かな人だつたなんて!妾、心からお詫びしなけりやいけないワ!さうね、雪夫さんが毎朝パンピネオにあんなことをさせてるのは妾だまつておくわ。だつて雪夫さんの変態な具合はよく分かつたんですもの、それに引き出しに沢山入つてゐた作文を読めば…」
 坂の上に見える白金台のお屋敷は雪で白く縁取られ、街頭や色電球の電飾をプリズムのやうな雪片に写してキラキラと色とりどりのしあはせを撒き散らしてゐました。タクシーに揺られながら僕はチクチクと心に刺さる言葉で虹色に滲む光を見つめ、星子の饒舌な喜びを聞いてゐて、それでも新しいお屋敷での生活に得も言はれぬ楽しさうな予感を感じてゐました。さうしてツイ勃起して星子の顔を両手で覆はせるのでした。