さへずり草紙NEO

旧はてなダイアリーを引き継いでいます。

星子の船出

1
 或る日、お天気がいゝのでウキウキと気持ちよくなつてお屋敷の長い長い廊下を暑いくらいの陽光に差されながら、タタタタヽヽヽヽと高々とお尻を掲げて雑巾がけしてゐたら、前方からミニ戦車に乗つた星子さんがキュルキュルキュルキュルとやつて来て、砲塔から身を乗り出すと
「雪夫サアアーン!貴方よく働くからけふはご褒美に洋食屋で御馳走させて頂戴ィ〜」
と、手を喇叭にして呼ばはりました。
ひよいと頭をあげたらスグ目の前に豆戦車が迫つてゐたので吃驚仰天して尻餅をつくと、飛行帽をかぶつた星子さんの戦車はキュラキュラキュラキュラとキャタピラーの響きも軽快に僕を轢いて、長い廊下に泥の二本筋を残して去つてゆきました。
僕はヒクヒクと痙攣したまゝ、下男に発見されるまで小一時間ばかり廊下に打ち捨てられてゐました。


2
「あら、そんなに大袈裟に痛さうにしなくてもいゝぢやない。ちよつと玩具に乗つかゝられた位で。此処のグリルは永遠に煮込んだかと思ふくらい濃厚なドミグラスソースが名物なのよ」
 僕は銀座裏の「グリル・ドヱム」で白いテエブル掛けのかゝつた卓を挟んで、星子さんと向かいあつてゐました。
「痛さうだなんて滅相もないですよ。星子さんに轢かれたのならむしろ運が向いてきさうです。」
 星子さんがパッと顔を輝かせました。本当はまづい事をしたと思つてゐたやうです。
「マア雪夫さん強いのネ。嬉しいわ!ぢやあ次はお屋敷の庭で私のダットサンにちよつとでいゝから轢かせて貰へないこと?」
 僕はぎょっとして身を固くしました。
「イヤですよ。本物の自動車相手では只で済まなさゝうです。」
 星子さんは哀れを誘ふやうに眉を寄せ、憐憫の色を瞳に浮かべて上目遣ひにくねくねしました。
「ホンのちよつと…アノ、厭だつたら下半身、うゝん、足の先くらいでもいゝから!本当に一寸なのよ」
 星子さんが指先で三センチほど示して哀願するので、僕はツイ同情してしまひさうになつて腕を組んでウームと難しい顔をしました。星子さんの顔がまたパッと輝きました。
「まあ、いいのネ!やつぱり私の雪夫さんだわ!格好いゝ男の中の男だワ!」
「いゝへ!駄目です駄目です!微塵もOKなンて云つてゐません!」
「何ふして厭なのさ! 可笑しいわ。筋が通らないわ!」
「ぢやあ星子さんのお願ひは筋が通つてゐるんですか」
「戦車に轢かれてるのに何ふして自動車が駄目なのよ!そんなだから雪夫さんは私にモテないんだわ!弱虫よ!仏蘭西では貴方みたいのをフニャチンつて云ふのよ」
「ふにやちんは仏蘭西語でcouille molleと云ふんですよ」
「いゝへ、ふにやちんで結構よ。さういふのを轢かれ者の小唄と云ふんだわ」
 そこへグリルのボイが新しい料理の皿を捧げ持つてきました。
「牛タンのドミグラス煮込みで御座います」
「マアヽヽ美味しさう」
 フォークを入れてひと口ずつ食べた星子さんは僕と顔を見合はせて歓声を上げました。
「とつても柔らかいわ!」
 僕はすこし悪戯心を出しました。
「星子さんの云ふふにやちんとどつちが柔はらかいの?」
 星子さんは赤くなつて俯いてしまひました。さうして、周囲が静かでなかつたら決して聞きとれない程の小声で答へました。
「こつち。」
 グリルのお客はみんな呆れたやうに此方を見てゐましたが、馬鹿馬鹿しいとでも云ふやうに一様に首をすくめました。

 約束通り勘定を払つて外へ出た星子さんと僕は自然に手をつないでゐました。
「美味しかつたでせう?私こゝで雪夫さんに食べさしたかつたのよ。」
「嬉しい!ぢやあ今度は僕が星子さんに御馳走しませう。」
「アラどうしませう。雪夫さんに其んないゝお店の見当がつくのかしら」
「あるとも。むかし奥様に教へて貰つたカフヱーが此の辺りに…」
 星子さんはピタと立ち止まつて、いきり立ちました。
「雪夫さん嫌ひだわ!女心も繊細なメンタルも判らない薄らトンカチね!ウッカリにも程がある!」
 僕は星子さんに背中から飛び蹴りを食らつて二、三回地面を転がり、分厚い木の扉にぶつかつて止まりました。フラフラと頭の周りに星を見ながら立ち上がると、其処は折良くスパニッシュ趣味のバアでした。
「星子さん、此処は何ふですか?たつたいま僕が見つけたんです。」
「だつたらいゝわ。素敵なお店ね」
 バアの中は薄暗く、しかも個室に分かれてゐました。白いお仕着せを着たボイは星子さんと僕を個室のひとつに案内するとメニュウを渡し、テヱブルの側に立つて注文を待つてゐます。
「何にしませうね」
「雪夫さんの飲めるものなら大概飲めるわ。だつて雪夫さんなんだもの、大したものは飲めやしないに決まつてるわ。お水みたいなものでせう。」
 僕はシャンパンを注文しました。
 スマートな流線型のグラスの底から細い泡が立つてゐるシャンパンで乾杯した僕は、忽ち酔つ払つてしまひました。星子さんも目元をほの紅くしてゐます。さうして酔つてみると、気の強さうな星子さんが意外にも子供のやうにあどけない表情をみせるのが目に立ちました。
「なによ。なに私の顔を凝つと見つめてゐるのよ。気持ち悪いわ」
「星子さんつて無邪気なあどけない顔もするんですね。かと思つたらヴァムプみたいな小悪魔のやうな顔つきにもなるし、トテモ表情が豊かで魅力的だから見とれてゐるんですよ」
「マアありがたう」
 星子さんは満更でもなさゝうに答へながらも髪のかゝつた頬を紅潮させて、恥ずかしさを隠すやうにグラスを呷ると、テヱブルに両腕を突いて挑発するやうに酔眼の顔を突き出しました。
「雪夫さん其れで甘い言葉を囁いてゐるつもり?口説いてみなさいよ。サア、雪夫さんに出来るものなら見ものだわ」
「だつたら此のお話を三話くらい前から読み返して御覧なさい。星子さんと初めて会つた時から僕は好きだつたんですよ。一目惚れですよ。恋して仕舞つたんだ。」
「さうだつたかしら?私まるで気がつかなかつたわ。デモありがたう!」
 星子さんは両手で顔を覆つてジタバタしました。
「だいゝち星子さんはキャラクターをしつかり持つてゐるし、聡明さに覆われてゐるし、優しいし、女らしいコケットがたつぷりですよ。誰が惚れずにゐられませう。」
 彼女はテヱブル掛の端をギュッと握りしめ、恍惚となつてすこし艶かしい声を上げたかと思ふと、身を捩つて照れました。
「嬉しいワ!嬉しいワ!」
 僕は勢いづいて椅子を弾き飛ばすと、ダッと立ち上がりました。
「付き合つてください!」
「厭よ!」
 星子さんはグラスを掲げたまゝ脚を組んで、髪を散らせながら冷然とそつぽを向きました。僕は愕然として腰から床にくだけました。
「ど、どうしてですか?」
「ぢやあ雪夫さんはどうして私が好きなのかしら?」
「恋に理由があるでせうか?」
「私には理由がほしいわ。」
「貴女と居ると生きてゆけるのです。なぜかといふと、自らを犠牲にしてゞも無償の愛を貴女に捧げたいからです。こんなに積極的なアタックをするのは初めてなんだ。」
「それあ重いわ。それに雪夫さんは恋が成就しちや雪夫さんぢやないでせう?」
「い、今まではさうだけれど…僕だつて成長するンです」
「私、雪夫さんの作文はぜんぶ読んで知つてゐるわ。デモ雪夫さんみたいなやゝこしい男なんか真平ご免だわ。見てる分にはいゝけど付き合ふには餘りにも冒険よ。それに私いゝ加減な返事はスグには出来ないことよ。」
「あれはどれも創作ですよ。現実に起きた事なんて一つだつてありやしません。」
「さうなの?そもそも雪夫さんはあゝいふ激しい女が好きなんでせう?」
「星子さんだつて充分激し…」
星子さんは激高して髪を乱しながらスクッと立ち上がり、フォークをテエブルに深々と突き刺しました。
「他の女と一緒にしないで頂戴!私は私よ!」
「勿論だよ。星子さんは二人とゐないよ。だから好きなんだ!」
「雪夫さんの云ふことなんか信用できるもんですか。それに雪夫さんなんか一寸面白ひ玩具より上とも下とも思へないわ。チットモ好みぢやないのよ」
「玩具にでも何んでもすればいゝぢやないですか。」
「私だつて恋はしたいけれど雪夫さんなんてトテモ可笑しくて…さうね、往来で猫が喇叭を吹いて行進してゐたら一寸は考へ直すかしら?」
 星子さんが勝ち誇つたやうに顎を反らしました。
「そんな無茶なこと、ある訳がないぢやないか!貴女は小悪魔だ!」
「いゝわよ。私は小悪魔よ!ホッホッホヽヽヽヽ」


3
 僕は勘定を済ませ、分厚い扉を排して星子さんと靄のかゝつた美しい五月の夜の路面に立ち出ました。すると丁度目の前を、省電の制帽をかぶつたサバトラ猫が二本足で立つて喇叭をプウプウと吹きたてながら、同じやうに二足歩行でヨチヨチと歩く仔猫を数匹従へて行進してゆきました。星子さんは目をごしごし拭いました。
 つつかへたり遅れを取り戻さうと早足になつたりする最後の仔猫が産毛のやうにポワポワした尻尾の先を揺らしながら横丁の角に消へるのを見送ると、星子さんは漸く口が訊けるになつたやうでした。
「雪夫さん、いくら自分の世界だからつて何でもしていゝ訳じやないわ」
「いま云はないでいつ云ふんだらう?独りよがりなのは分かつてゐるよ。シャンクレールの夜のときから、其れは判つてゐたんだ。」
「貴方は本当に何ふしやうもなく困つた人ね」
 僕はバアを出た道路の、街頭が切れた暗がりで星子さんを強く抱きしめました。
 星子さんの腕がだらりと力を失ひ垂れ下がりました。彼女は小鳩のやうに柔らかく、小鳩のやうにおとなしくなりました。僕は彼女の耳の中へ囁きました。
「キスをするよ?」
「うそつき。」
 星子さんはふはふはと正気の定まらない潤んだ瞳で甘く呟きました。
 僕は星子さんの瞳を凝つと見つめました。目と目がかつちり合つたら月が雲間に隠れて辺りは真暗になりました。星子さんは陶然として目を閉じ、格好のいゝ唇を突き出しました。
 其処にはたゞ星子さんの柔らかさだけがありました。
「ぐぐぐ」
 星子さんは長い口づけに苦しくなつたのか唇をもぎ離して喚き始めました。
「違ふわ!違ふわ!これぢやあ雪夫さんのお話にならないぢやないの!すこし書き直して頂戴!」
「仕方ないなあ」

 僕は物語を両手でまさぐつて孔を拵へると、首を突つこんで藻搔きながら物語から抜け出しました。さうしてお屋敷の玄関のたゝきに転げ落ちると、ダダダダダと階段を駆け上がつて書斎机に陣取りました。

 天井にはミラアボールが物憂げにゆつくりと回転して、薄暗いフロアに気まぐれな光をばら撒いてゐます。濡れ雑巾で窓ガラスを引つ叩いたやうなパシャーンといふ鋭い音がしたかと思ふと、せわしない光の下で六人編成のジャズバンドがジャカジャカとジャズりはじめました。南洋の蛇のやうに太くうねつてウロウロ迷走するテナーサックス。つんざくやうにシャウトしたり呻き声をあげるトラムペット。ベコベコの音で逞しくトラムペットに闘いを挑むトロムボーン。星を散らすやうなピアノ。それぞれの脚にタップシューズを履いた百足のやうなバンジョー。濡れ雑巾の正体の、腹にこたへるドラムスはときどき木魚をぽこぽこ鳴らしたり噴水のやうなシムバルを叩いたり、演奏の邪魔に余念がありません。其のジャズバンドをバックに星子さんは白い諸肌脱ぎのドレスで軽くスヰングしながら、自分の身だしなみをしかじかと確認してゐます。
「あら、斯ういふのが書けるなら最初からさうすればよかつたのに!ついでで悪いけれど、靴は燃え立つやうな真赤にして頂戴。」
「はいはい」
「ちよつと!面倒くさがらないで!」
 星子さんは赤いシューズを放るやうに黒いストレッキングの脚で床と宙を蹴り、激しくスヰングしました。ジャズバンドが古いナンバーの「ヴァンプ」を演奏しはぢめました。

〽誰でも踊る 夢中で踊る レディーをかゝえ
 調に合ふなら シミーも尚且つフォックストロット 何でもおいで
 一踊り、踊らうよ 一歌ひ、歌はうよ
 心配は、どこかへ飛ばして さあおいで
 渦を巻き、巻き返す 歓楽の一踊り、
 昼も夜も
 あゝ― 踊るうちに踊るうちに 踊るうちに踊るうちに
 あゝ― 意思疎通し意思疎通し 意思疎通し意思疎通し
 あゝ― 天下は泰平天下は泰平
 みんながハッピーみんながハッピー
 みんながハッピーさ!グッド!!
                     (「ヴァンプ」堀内敬三訳詞)

 踊りながら歌ふ星子さんは衣装が白いからか、ヒラヒラ舞ふ蝶々に見へました。――――――と、彼女は両手を広げ、首をすくめて僕に訴へました。
「それは月並みな表現よ!」
「賛辞が足りませんでしたか?」
「さういふ訳ぢやないけど…」
 星子さんは深いブルーのナイトドレスに、金色に光るヱヂプト風の小さな首飾りを揺らし、黒い長手袋の捩れを気にして直しました。
「……今度はどこへ連れてこられたのかしら?」
「此処はベルゲンランド号の一等船室の甲板ですよ。」
 塩を帯びた粘ばつこい夜風に吹かれながら僕は乱れる髪をおさへおさへ答へました。
「ベルゲンランド?」
レッドスターラインの豪華客船です。僕らは横浜から乗り込んだんですよ。 さう、貴女はこの船に乗り組んでゐるダンスバンドの歌姫として契約したんです。」
 ベルゲンランド号は青黒い海面に白く泡立つ航跡を曳きながら、二〇ノット近くの快速で海原を切り裂いて進んでゐました。陽が落ちて間もないスカイブルーの空を背景にして、幾尾もの飛び魚が船と並行して円弧を描いて飛んでゐました。星子さんは潮風にドレスの裾をはためかせながら、遠くから見たら恰も挑むやうな恰好で僕に顔を突きつけました。
「マアッぢやあ私、紐育に行けるのね!」
「紐育だけぢやないよ。亜米利加でノルマンディ号に乗り継いでシェルブールへ行くんだ。最終の目的地は巴里さ」
「!」
 星子さんはもう驚喜のあまり目を見開いて長手袋の両掌を口元で固く握り合はせたまゝ、物も云ふことを忘れてゐました。
「潮風に吹かれつぱなしなのも厭だから船に入りませう。それにサルーンでは乗組バンドの演奏で星子さんが唄う事になつてゐるんだから」
「それは大変だわ」
 サルーンでは既に煌々と明るいシャンデリヤの下に、一等船室の旅客を中心とした正装の紳士淑女貴顕が集つており、珈琲や軽いカクテルを嗜みながらダンスバンドのために設へてあるひな壇の周囲を遊弋してゐました。英語だけでなく仏蘭西語やドイツ語、日本語の入り交じる喧騒を、高級な羽毛布団の羽毛をぜんぶ空中に吐き出したやうなフワッと軽いサックスの合奏で「ブルームーン」が始まりました。すると金髪や黒髪や髪飾りのあるのや無いのや、腕を露わにしたレディとタキシードの黒が映えて、みな緩やかに抱き合つて踊りはぢめました。
「いけないッ。遅れさうッ」

ブルームーン 流れ微かに 夢を囁く 夢を囁く
 ブルームーン 独り唄へば 涙溢れくる 涙溢れくる
 淡き恋の想出 浮かぶ君の面影 今宵独り静かに 心和むこの丘
 ブルームーン 過ぎし昔の 夢よ懐し 夢よ懐し

 「失敗つたワ!うつかり日本語で唄つちやつたぢやないの!」
 星子さんは白人楽士ばかりの楽団の前で狼狽へました。すると、さゝやかな拍手と共にバンドを囲んだダンス客たちは、つい先ごろまでゐた日本に思ひを馳せてか、星子さんのヴォーカルをたいそう喜んで、声を掛けてきました。粋で愛嬌のあるバンドリーダーは星子さんを、大丈夫だからとでも云ふやうにがつちりと分厚い胸板に軽く抱きしめました。さうして、耳元に次の曲を囁くと洒脱にウィンクしてバンドに振り返りました。
 僕は貧相な形ばかりの三つ揃ひでサルーンの隅つこに佇んで、たゞその社交場に圧倒されてドキドキしながら、流れに身を任せる花を見るやうに外国人の踊りに見惚れてゐました。メリハリのくつきりと付いた星子さんのヴォーカルは外国人にも一寸したカタルシスを与へたらしく、「上海リル」や「コンチネンタル」や「ホエア・ザ・レイジイリヴァー・ゴーズ・バイ」を唄ひ終はつてダンス客からてんでに激賞された星子さんがはうはうの態でサルーンの壁伝ひに僕の側へ駆け寄つて来ました。
「サア今度は私、踊る番だわ。雪夫さんお相手して呉れないこと?」
「ボボ僕は踊るなンて」
「踊れるわ。スヰングでもボックスが基本なんだから」
 其の言葉の通り、僕は星子さんのサテンのドレスの感触と躰を掌に感じながら踊ることが出来ました。
 小気味よく汗をかいてデッキに出ると、視界に入るかぎりの空は満天の星に覆はれてゐました。水平線は見へませんが、暗い海に波頭が時おり白い照り返しをみせます。後ろから随つてきた星子さんは「まア綺麗」と呟きました。それは心に沁みて悲しくなる美しさでした。
 僕は彼女の瞳を覗きこんで懇願しました。
「やつぱり駄目かい?」
「まだ勇気が要るわね。此の儘で楽しくお付き合いしてゐればいいぢやない?」
 僕は星子さんの云ひ終はるのも待たずに形のよい唇に被さりましたが、彼女に上手くかはされました。僕はばつが悪くなりました。
「それはさうだけど心がモヤモヤするンだよ。自分がいま何処にゐるのかも判らない。」
「ぢやあ雪夫さんが其れを確かにして頂戴」
さうして僕の耳にやさしく
「ちよつとだけ轢かせて呉れるわネ」
 と甘へるやうに吹き込みました。僕は、星子さんならいゝかなと少し思つてしまひました。(続)

1

 或る日、お天気がいゝのでウキウキと気持ちよくなつてお屋敷の長い長い廊下を暑いくらいの陽光に差されながら、タタタタヽヽヽヽと高々とお尻を掲げて雑巾がけしてゐたら、前方からミニ戦車に乗つた星子さんがキュルキュルキュルキュルとやつて来て、砲塔から身を乗り出すと
「雪夫サアアーン!貴方よく働くからけふはご褒美に洋食屋で御馳走させて頂戴ィ〜」
と、手を喇叭にして呼ばはりました。
ひよいと頭をあげたらスグ目の前に豆戦車が迫つてゐたので吃驚仰天して尻餅をつくと、飛行帽をかぶつた星子さんの戦車はキュラキュラキュラキュラとキャタピラーの響きも軽快に僕を轢いて、長い廊下に泥の二本筋を残して去つてゆきました。
僕はヒクヒクと痙攣したまゝ、下男に発見されるまで小一時間ばかり廊下に打ち捨てられてゐました。


2
「あら、そんなに大袈裟に痛さうにしなくてもいゝぢやない。ちよつと玩具に乗つかゝられた位で。此処のグリルは永遠に煮込んだかと思ふくらい濃厚なドミグラスソースが名物なのよ」
 僕は銀座裏の「グリル・ドヱム」で白いテエブル掛けのかゝつた卓を挟んで、星子さんと向かいあつてゐました。
「痛さうだなんて滅相もないですよ。星子さんに轢かれたのならむしろ運が向いてきさうです。」
 星子さんがパッと顔を輝かせました。本当はまづい事をしたと思つてゐたやうです。
「マア雪夫さん強いのネ。嬉しいわ!ぢやあ次はお屋敷の庭で私のダットサンにちよつとでいゝから轢かせて貰へないこと?」
 僕はぎょっとして身を固くしました。
「イヤですよ。本物の自動車相手では只で済まなさゝうです。」
 星子さんは哀れを誘ふやうに眉を寄せ、憐憫の色を瞳に浮かべて上目遣ひにくねくねしました。
「ホンのちよつと…アノ、厭だつたら下半身、うゝん、足の先くらいでもいゝから!本当に一寸なのよ」
 星子さんが指先で三センチほど示して哀願するので、僕はツイ同情してしまひさうになつて腕を組んでウームと難しい顔をしました。星子さんの顔がまたパッと輝きました。
「まあ、いいのネ!やつぱり私の雪夫さんだわ!格好いゝ男の中の男だワ!」
「いゝへ!駄目です駄目です!微塵もOKなンて云つてゐません!」
「何ふして厭なのさ! 可笑しいわ。筋が通らないわ!」
「ぢやあ星子さんのお願ひは筋が通つてゐるんですか」
「戦車に轢かれてるのに何ふして自動車が駄目なのよ!そんなだから雪夫さんは私にモテないんだわ!弱虫よ!仏蘭西では貴方みたいのをフニャチンつて云ふのよ」
「ふにやちんは仏蘭西語でcouille molleと云ふんですよ」
「いゝへ、ふにやちんで結構よ。さういふのを轢かれ者の小唄と云ふんだわ」
 そこへグリルのボイが新しい料理の皿を捧げ持つてきました。
「牛タンのドミグラス煮込みで御座います」
「マアヽヽ美味しさう」
 フォークを入れてひと口ずつ食べた星子さんは僕と顔を見合はせて歓声を上げました。
「とつても柔らかいわ!」
 僕はすこし悪戯心を出しました。
「星子さんの云ふふにやちんとどつちが柔はらかいの?」
 星子さんは赤くなつて俯いてしまひました。さうして、周囲が静かでなかつたら決して聞きとれない程の小声で答へました。
「こつち。」
 グリルのお客はみんな呆れたやうに此方を見てゐましたが、馬鹿馬鹿しいとでも云ふやうに一様に首をすくめました。

 約束通り勘定を払つて外へ出た星子さんと僕は自然に手をつないでゐました。
「美味しかつたでせう?私こゝで雪夫さんに食べさしたかつたのよ。」
「嬉しい!ぢやあ今度は僕が星子さんに御馳走しませう。」
「アラどうしませう。雪夫さんに其んないゝお店の見当がつくのかしら」
「あるとも。むかし奥様に教へて貰つたカフヱーが此の辺りに…」
 星子さんはピタと立ち止まつて、いきり立ちました。
「雪夫さん嫌ひだわ!女心も繊細なメンタルも判らない薄らトンカチね!ウッカリにも程がある!」
 僕は星子さんに背中から飛び蹴りを食らつて二、三回地面を転がり、分厚い木の扉にぶつかつて止まりました。フラフラと頭の周りに星を見ながら立ち上がると、其処は折良くスパニッシュ趣味のバアでした。
「星子さん、此処は何ふですか?たつたいま僕が見つけたんです。」
「だつたらいゝわ。素敵なお店ね」
 バアの中は薄暗く、しかも個室に分かれてゐました。白いお仕着せを着たボイは星子さんと僕を個室のひとつに案内するとメニュウを渡し、テヱブルの側に立つて注文を待つてゐます。
「何にしませうね」
「雪夫さんの飲めるものなら大概飲めるわ。だつて雪夫さんなんだもの、大したものは飲めやしないに決まつてるわ。お水みたいなものでせう。」
 僕はシャンパンを注文しました。
 スマートな流線型のグラスの底から細い泡が立つてゐるシャンパンで乾杯した僕は、忽ち酔つ払つてしまひました。星子さんも目元をほの紅くしてゐます。さうして酔つてみると、気の強さうな星子さんが意外にも子供のやうにあどけない表情をみせるのが目に立ちました。
「なによ。なに私の顔を凝つと見つめてゐるのよ。気持ち悪いわ」
「星子さんつて無邪気なあどけない顔もするんですね。かと思つたらヴァムプみたいな小悪魔のやうな顔つきにもなるし、トテモ表情が豊かで魅力的だから見とれてゐるんですよ」
「マアありがたう」
 星子さんは満更でもなさゝうに答へながらも髪のかゝつた頬を紅潮させて、恥ずかしさを隠すやうにグラスを呷ると、テヱブルに両腕を突いて挑発するやうに酔眼の顔を突き出しました。
「雪夫さん其れで甘い言葉を囁いてゐるつもり?口説いてみなさいよ。サア、雪夫さんに出来るものなら見ものだわ」
「だつたら此のお話を三話くらい前から読み返して御覧なさい。星子さんと初めて会つた時から僕は好きだつたんですよ。一目惚れですよ。恋して仕舞つたんだ。」
「さうだつたかしら?私まるで気がつかなかつたわ。デモありがたう!」
 星子さんは両手で顔を覆つてジタバタしました。
「だいゝち星子さんはキャラクターをしつかり持つてゐるし、聡明さに覆われてゐるし、優しいし、女らしいコケットがたつぷりですよ。誰が惚れずにゐられませう。」
 彼女はテヱブル掛の端をギュッと握りしめ、恍惚となつてすこし艶かしい声を上げたかと思ふと、身を捩つて照れました。
「嬉しいワ!嬉しいワ!」
 僕は勢いづいて椅子を弾き飛ばすと、ダッと立ち上がりました。
「付き合つてください!」
「厭よ!」
 星子さんはグラスを掲げたまゝ脚を組んで、髪を散らせながら冷然とそつぽを向きました。僕は愕然として腰から床にくだけました。
「ど、どうしてですか?」
「ぢやあ雪夫さんはどうして私が好きなのかしら?」
「恋に理由があるでせうか?」
「私には理由がほしいわ。」
「貴女と居ると生きてゆけるのです。なぜかといふと、自らを犠牲にしてゞも無償の愛を貴女に捧げたいからです。こんなに積極的なアタックをするのは初めてなんだ。」
「それあ重いわ。それに雪夫さんは恋が成就しちや雪夫さんぢやないでせう?」
「い、今まではさうだけれど…僕だつて成長するンです」
「私、雪夫さんの作文はぜんぶ読んで知つてゐるわ。デモ雪夫さんみたいなやゝこしい男なんか真平ご免だわ。見てる分にはいゝけど付き合ふには餘りにも冒険よ。それに私いゝ加減な返事はスグには出来ないことよ。」
「あれはどれも創作ですよ。現実に起きた事なんて一つだつてありやしません。」
「さうなの?そもそも雪夫さんはあゝいふ激しい女が好きなんでせう?」
「星子さんだつて充分激し…」
星子さんは激高して髪を乱しながらスクッと立ち上がり、フォークをテエブルに深々と突き刺しました。
「他の女と一緒にしないで頂戴!私は私よ!」
「勿論だよ。星子さんは二人とゐないよ。だから好きなんだ!」
「雪夫さんの云ふことなんか信用できるもんですか。それに雪夫さんなんか一寸面白ひ玩具より上とも下とも思へないわ。チットモ好みぢやないのよ」
「玩具にでも何んでもすればいゝぢやないですか。」
「私だつて恋はしたいけれど雪夫さんなんてトテモ可笑しくて…さうね、往来で猫が喇叭を吹いて行進してゐたら一寸は考へ直すかしら?」
 星子さんが勝ち誇つたやうに顎を反らしました。
「そんな無茶なこと、ある訳がないぢやないか!貴女は小悪魔だ!」
「いゝわよ。私は小悪魔よ!ホッホッホヽヽヽヽ」


3
 僕は勘定を済ませ、分厚い扉を排して星子さんと靄のかゝつた美しい五月の夜の路面に立ち出ました。すると丁度目の前を、省電の制帽をかぶつたサバトラ猫が二本足で立つて喇叭をプウプウと吹きたてながら、同じやうに二足歩行でヨチヨチと歩く仔猫を数匹従へて行進してゆきました。星子さんは目をごしごし拭いました。
 つつかへたり遅れを取り戻さうと早足になつたりする最後の仔猫が産毛のやうにポワポワした尻尾の先を揺らしながら横丁の角に消へるのを見送ると、星子さんは漸く口が訊けるになつたやうでした。
「雪夫さん、いくら自分の世界だからつて何でもしていゝ訳じやないわ」
「いま云はないでいつ云ふんだらう?独りよがりなのは分かつてゐるよ。シャンクレールの夜のときから、其れは判つてゐたんだ。」
「貴方は本当に何ふしやうもなく困つた人ね」
 僕はバアを出た道路の、街頭が切れた暗がりで星子さんを強く抱きしめました。
 星子さんの腕がだらりと力を失ひ垂れ下がりました。彼女は小鳩のやうに柔らかく、小鳩のやうにおとなしくなりました。僕は彼女の耳の中へ囁きました。
「キスをするよ?」
「うそつき。」
 星子さんはふはふはと正気の定まらない潤んだ瞳で甘く呟きました。
 僕は星子さんの瞳を凝つと見つめました。目と目がかつちり合つたら月が雲間に隠れて辺りは真暗になりました。星子さんは陶然として目を閉じ、格好のいゝ唇を突き出しました。
 其処にはたゞ星子さんの柔らかさだけがありました。
「ぐぐぐ」
 星子さんは長い口づけに苦しくなつたのか唇をもぎ離して喚き始めました。
「違ふわ!違ふわ!これぢやあ雪夫さんのお話にならないぢやないの!すこし書き直して頂戴!」
「仕方ないなあ」

 僕は物語を両手でまさぐつて孔を拵へると、首を突つこんで藻搔きながら物語から抜け出しました。さうしてお屋敷の玄関のたゝきに転げ落ちると、ダダダダダと階段を駆け上がつて書斎机に陣取りました。

 天井にはミラアボールが物憂げにゆつくりと回転して、薄暗いフロアに気まぐれな光をばら撒いてゐます。濡れ雑巾で窓ガラスを引つ叩いたやうなパシャーンといふ鋭い音がしたかと思ふと、せわしない光の下で六人編成のジャズバンドがジャカジャカとジャズりはじめました。南洋の蛇のやうに太くうねつてウロウロ迷走するテナーサックス。つんざくやうにシャウトしたり呻き声をあげるトラムペット。ベコベコの音で逞しくトラムペットに闘いを挑むトロムボーン。星を散らすやうなピアノ。それぞれの脚にタップシューズを履いた百足のやうなバンジョー。濡れ雑巾の正体の、腹にこたへるドラムスはときどき木魚をぽこぽこ鳴らしたり噴水のやうなシムバルを叩いたり、演奏の邪魔に余念がありません。其のジャズバンドをバックに星子さんは白い諸肌脱ぎのドレスで軽くスヰングしながら、自分の身だしなみをしかじかと確認してゐます。
「あら、斯ういふのが書けるなら最初からさうすればよかつたのに!ついでで悪いけれど、靴は燃え立つやうな真赤にして頂戴。」
「はいはい」
「ちよつと!面倒くさがらないで!」
 星子さんは赤いシューズを放るやうに黒いストレッキングの脚で床と宙を蹴り、激しくスヰングしました。ジャズバンドが古いナンバーの「ヴァンプ」を演奏しはぢめました。

〽誰でも踊る 夢中で踊る レディーをかゝえ
 調に合ふなら シミーも尚且つフォックストロット 何でもおいで
 一踊り、踊らうよ 一歌ひ、歌はうよ
 心配は、どこかへ飛ばして さあおいで
 渦を巻き、巻き返す 歓楽の一踊り、
 昼も夜も
 あゝ― 踊るうちに踊るうちに 踊るうちに踊るうちに
 あゝ― 意思疎通し意思疎通し 意思疎通し意思疎通し
 あゝ― 天下は泰平天下は泰平
 みんながハッピーみんながハッピー
 みんながハッピーさ!グッド!!
                     (「ヴァンプ」堀内敬三訳詞)

 踊りながら歌ふ星子さんは衣装が白いからか、ヒラヒラ舞ふ蝶々に見へました。――――――と、彼女は両手を広げ、首をすくめて僕に訴へました。
「それは月並みな表現よ!」
「賛辞が足りませんでしたか?」
「さういふ訳ぢやないけど…」
 星子さんは深いブルーのナイトドレスに、金色に光るヱヂプト風の小さな首飾りを揺らし、黒い長手袋の捩れを気にして直しました。
「……今度はどこへ連れてこられたのかしら?」
「此処はベルゲンランド号の一等船室の甲板ですよ。」
 塩を帯びた粘ばつこい夜風に吹かれながら僕は乱れる髪をおさへおさへ答へました。
「ベルゲンランド?」
レッドスターラインの豪華客船です。僕らは横浜から乗り込んだんですよ。 さう、貴女はこの船に乗り組んでゐるダンスバンドの歌姫として契約したんです。」
 ベルゲンランド号は青黒い海面に白く泡立つ航跡を曳きながら、二〇ノット近くの快速で海原を切り裂いて進んでゐました。陽が落ちて間もないスカイブルーの空を背景にして、幾尾もの飛び魚が船と並行して円弧を描いて飛んでゐました。星子さんは潮風にドレスの裾をはためかせながら、遠くから見たら恰も挑むやうな恰好で僕に顔を突きつけました。
「マアッぢやあ私、紐育に行けるのね!」
「紐育だけぢやないよ。亜米利加でノルマンディ号に乗り継いでシェルブールへ行くんだ。最終の目的地は巴里さ」
「!」
 星子さんはもう驚喜のあまり目を見開いて長手袋の両掌を口元で固く握り合はせたまゝ、物も云ふことを忘れてゐました。
「潮風に吹かれつぱなしなのも厭だから船に入りませう。それにサルーンでは乗組バンドの演奏で星子さんが唄う事になつてゐるんだから」
「それは大変だわ」
 サルーンでは既に煌々と明るいシャンデリヤの下に、一等船室の旅客を中心とした正装の紳士淑女貴顕が集つており、珈琲や軽いカクテルを嗜みながらダンスバンドのために設へてあるひな壇の周囲を遊弋してゐました。英語だけでなく仏蘭西語やドイツ語、日本語の入り交じる喧騒を、高級な羽毛布団の羽毛をぜんぶ空中に吐き出したやうなフワッと軽いサックスの合奏で「ブルームーン」が始まりました。すると金髪や黒髪や髪飾りのあるのや無いのや、腕を露わにしたレディとタキシードの黒が映えて、みな緩やかに抱き合つて踊りはぢめました。
「いけないッ。遅れさうッ」

ブルームーン 流れ微かに 夢を囁く 夢を囁く
 ブルームーン 独り唄へば 涙溢れくる 涙溢れくる
 淡き恋の想出 浮かぶ君の面影 今宵独り静かに 心和むこの丘
 ブルームーン 過ぎし昔の 夢よ懐し 夢よ懐し

 「失敗つたワ!うつかり日本語で唄つちやつたぢやないの!」
 星子さんは白人楽士ばかりの楽団の前で狼狽へました。すると、さゝやかな拍手と共にバンドを囲んだダンス客たちは、つい先ごろまでゐた日本に思ひを馳せてか、星子さんのヴォーカルをたいそう喜んで、声を掛けてきました。粋で愛嬌のあるバンドリーダーは星子さんを、大丈夫だからとでも云ふやうにがつちりと分厚い胸板に軽く抱きしめました。さうして、耳元に次の曲を囁くと洒脱にウィンクしてバンドに振り返りました。
 僕は貧相な形ばかりの三つ揃ひでサルーンの隅つこに佇んで、たゞその社交場に圧倒されてドキドキしながら、流れに身を任せる花を見るやうに外国人の踊りに見惚れてゐました。メリハリのくつきりと付いた星子さんのヴォーカルは外国人にも一寸したカタルシスを与へたらしく、「上海リル」や「コンチネンタル」や「ホエア・ザ・レイジイリヴァー・ゴーズ・バイ」を唄ひ終はつてダンス客からてんでに激賞された星子さんがはうはうの態でサルーンの壁伝ひに僕の側へ駆け寄つて来ました。
「サア今度は私、踊る番だわ。雪夫さんお相手して呉れないこと?」
「ボボ僕は踊るなンて」
「踊れるわ。スヰングでもボックスが基本なんだから」
 其の言葉の通り、僕は星子さんのサテンのドレスの感触と躰を掌に感じながら踊ることが出来ました。
 小気味よく汗をかいてデッキに出ると、視界に入るかぎりの空は満天の星に覆はれてゐました。水平線は見へませんが、暗い海に波頭が時おり白い照り返しをみせます。後ろから随つてきた星子さんは「まア綺麗」と呟きました。それは心に沁みて悲しくなる美しさでした。
 僕は彼女の瞳を覗きこんで懇願しました。
「やつぱり駄目かい?」
「まだ勇気が要るわね。此の儘で楽しくお付き合いしてゐればいいぢやない?」
 僕は星子さんの云ひ終はるのも待たずに形のよい唇に被さりましたが、彼女に上手くかはされました。僕はばつが悪くなりました。
「それはさうだけど心がモヤモヤするンだよ。自分がいま何処にゐるのかも判らない。」
「ぢやあ雪夫さんが其れを確かにして頂戴」
さうして僕の耳にやさしく
「ちよつとだけ轢かせて呉れるわネ」
 と甘へるやうに吹き込みました。僕は、星子さんならいゝかなと少し思つてしまひました。(続)