さへずり草紙NEO

旧はてなダイアリーを引き継いでいます。

摩天楼の星子 1

「凄いわ!見て御覧なさい」
 マンハッタンの街で上空を見上げて星子さんが感嘆の声を漏らしました。彼女が軽く飛び跳ねながら指差す先に、エンパイヤ•ステイト•ビルやクライスラア•ビルといつた摩天楼の天辺すれすれに腹をかすめるやうに、巨大なツェッペリン飛行船が麻色の船体を夕陽に晒して静かに音もなく、然し威風堂々と滑つて行きました。
 大きなナツィスの鉤十字の描かれた赤い尾翼を見送りながら星子さんは地団駄を踏んで僕の胸ぐらを掴みました。
「あれに乗りたいわ!雪夫さん」
「どうせ巴里に行くんだから独逸に足を延ばして、フランクフルトから乗つて紐育に戻りませう」
「素敵つ。アレはツェッペリン伯号でせう?前に日本に来た…」
「うゝん、此れはヒンデンブルク号ですよ。前に来たのより新しくて大きい」
「あんな空のお魚みたいな船に乗つて世界旅行なんて、夢みたやうだわ!」
 星子さんはすつかりヒンデンブルク号に乗ると決め込んだ様子です。
「アレは何うやつて飛んでるのかしら?」
「水素が一杯に詰つてゐるんですよ、だから浮くんです」
「水素つたら瓦斯でせう?火が着いて燃へあがつたりなンかしないのかしら」
「アルミニュームの船体に瓦斯を詰めて、その上から布で覆つてあるから火が着くなんて未来永劫ありませんよ」
「マア安全なのね!」
「飛行機は空で止まつたら落ちるけれど飛行船は止まつたところでフハフハ浮いてるだけですからね」
「独逸まで行つたら是非乗りませう!」
「ウン!」
 飛行船の話題で盛り上がりながら、星子さんと一緒に居られてワクワクする心地を密かに隠し隠し歩いてゐたら、僕たちは何時の間にかマンハッタンの五番街を遥か抜けて百四十番街あたりにあるハーレムに来てゐました。
さうして夕闇のなか、目にも眩くサヴォイ•ボールルームのネオンが煌々と輝いてゐました。



 サヴォイ•ボールルームは四千人を飲み込むでホールで踊らせるといふ、化け物のやうに広いダンスホールです。そんなだゞつ広い場所なのでダンスバンドも大きい編成になつてゐるのだと、日本を出る前に裸の女目当てで読んだ「モダンダンス」に書いてありました。
 薄水色の肩出しワンピースの星子さんはそんな話を流し聞いてゐましたが、しかじかと見てゐたサヴォイの看板からクルッと振り返ると、両手を胸の前で組みながら懇願しました。
「私、此処にはいりたいワ、ね、いゝでせう?此処じやリンディ•ホップとかいふ曲芸みたいなダンスをやつてるさうよ?」
「面白さうぢやないですか。入りませう!」
 ボールルームでは既に楽団の演奏が始まつてゐました。矢張り、如何に大編成のジャズオーケストラと云へど、広大なボールルームでは音が散つてしまふと見へて、拡声器でフロアの隅々まで尖鋭的なフォックス•トロットを撒き散らしてゐます。
「これはホワイトヒートと云ふ曲よ。さう、だからアノ楽団はジミー•ランスフォード楽団ね!あゝ夢みたい!」
 その過激な急速テンポに乗つて、滑らかな肌の黒人の群れが、所々に白人を交へ、猿のやうに自在に腰を折つたりジタバタと宙を手脚で蹴りながらついたり離れたり、ペアで踊り狂つてゐました。
「これがダンスなんですか?日本のとは随分ちがふやうだ」
「それあ此方ではスヰング時代ですもの!雪夫さんも踊らないこと?」
「へ?」
 見れば精悍な黒人の男が幾分肌の色の薄い女性を軽々と腕に乗せて宙返りさせたり、自分の頭の上を飛び越へさせたりしてゐます。終ひには男も女も床に背中を擦り付けたりなどして、エクスタシイに浸りながら躰を叩きつけるやうに目まぐるしく乱舞してゐました。
その生命力の旺盛な様子は、僕には丸で別世界のやうに思はれましたが、星子さんはラメの入った薄紗のワンピースの裾をギュッと握りながら、瞳に或る種の情欲の色を浮かべて喰い入るやうに見つめてゐます。さうして僕の気持ちを汲んだやうに、潤んだ眸でダンスを見つめたまゝ呟きました。
「さうよ雪夫さん、あれよ。あれをするのよ」
 僕は激しくかぶりを振ろうとしましたが、すつかりその気の星子さんに、正面から上目遣ひに見据へられて仕舞ひました。
「出来るわよね?」
「ちよつと待つてください」
 僕はひとまず星子さんの衣裳を鮮やかなオレンジ色の短めなスカートと真白いシャツに書き換へました。其れから強精剤のラボカを一ダースのケースで書き加へました。星子さんは、フワッと柔はらかく軽いスカアトの裾をつまみ上げて、満更でない顔つきです。さうして、ラボカのケースを見てギョッとしました。
「そんなにラボカを飲んだら死んでしまふわ!」
「前に戦車に轢かれたときに肩を折つたからこれくらい飲まないとトテモ星子さんを担いだり出来ないんだよ」
「あら私のせいなの?」
「いゝへ、心臓だつて悪いんです。デモどのみちラボカは翼を授けて呉れるでせう」
「雪夫さんは何んでもするのね!」
「それは」
 星子さんの為ですと云はうとしたものゝ、余り喜んで貰へないやうな気がして、止めて仕舞ひました。



 ラボカの効果は抜群でした。僕は星子さんを人形のやうに空中に手荒く投げつけると思ひきや其の手を掴んで肩越しに宙返りさせたり、磁石が強力な磁力でピッタリ引つ付いたり絶対的な反発力で弾けて離れたりするやうに、息の合つたところをフロアの黒人ダンサーたちに存分に見せつけました。
 ジミー•ランスフォード楽団も、初めこそ「ハーレムから来た男」を格好よく吹かしていましたが、途中からプレイヤーが吹くのも忘れて僕らのダンスに魅入りました。さうして、やうやうのことで演奏が終はつて、派手に星子さんをフロアに滑り投げて終はると、何千の観衆から轟のやうな拍手が湧きました。
 僕は遠い遠いランスフォード楽長の許に全速力で駆け寄つて、彼の耳に囁きました。バンドリーダーは愛嬌のある黒い顔を破顔させてウヰンクしました。
僕はゼエゼエ云ひながら星子さんの処へ戻ると、其の手を取つて小走りでまだざわついている観衆を掻き分け、やつとのことでジミー•ランスフォード楽団へ彼女を送り届けました。
「星子さんは歌手だからランスフォード楽長が何か歌つてほしいつて!」
 星子さんは目を白黒させました。
「私、紐育で歌へるのね!しかも此処はサヴォイよ。嬉しいわ!!」
ジャズオーケストラがイントロを奏ではじめました。甘いスヰングです。フロアの人という人は緩やかなスロー•フォックストロットに身を委ねました。

〽あゝ君が為に狂ひし吾が胸
 涙は溢るゝよ 空曇るまで
 たとへ友みな吾を捨て去りゆくとも
 いまは吾は恋の虜 君が下僕
 あゝたゞ 君が為に狂ひし吾が胸
  (貴方に夢中 "You're driving me crazy! what did I do?")

 南里文雄に似た野太いトラムペットがフレーズをなぞつてハイノートで〆を決めるとアッパータウンの住民もさうでない外から来た踊り手も陶然と吐息を漏らして喝采しました。
「もう一曲歌はせて貰うわね。折角ですもの、楽しまなくちや!…ぢやあ、バイミーア•ビスト•ドゥ•シェーン!あら、一九三六年ぢや未だアメリカで流行つてなかつたかしら?マア来年には流行るからいゝわね?」
 ジミー•ランスフォードがOKだと身振りで示しました。
「流石ジミーね! 今夜は日本語で歌ふわよ。素敵な貴女!」

〽Bei mir bist du schön お聴きなさい 素晴らしい言葉を
 Bei mir bist du schön この意味を 貴女だけに言いましょう
 誰もしらない素敵な言葉 とても嬉しい甘い言葉よ
 Bei mir bist du schön この意味を 貴女だけに言いましょう
  (君は素敵だ "Bei mir bist du schön")

 クラリネットが重なつてリードに繋がるイントロから、やがてクラリネットがほぐれてゆくフィナーレまで、今度は誰も踊らずに星子さんのヴォーカルに耳を傾けてゐます。
 星子さんは四千の観衆の心を鷲掴みにして、恰も心のリンディ•ホップを踊らせてゐるやうでした。彼女が歌ひ終へると、僕は感激のあまり臆面もなく星子さんを肩口から抱き寄せて、予告もなく柔はらかな口づけを与へました。
「キャッ。皆さんが見てるわよぅ」
アメリカ式ですよ」
 ボールルームの空気は甘く打ち解け、四千のキスの音がさゝさかに響きます。マンハッタンの一夜は陶酔するやうなリズムとエクスタシーのうちに更けてゆきました。