さへずり草紙NEO

旧はてなダイアリーを引き継いでいます。

「ダンスホールのルル」

 木曜日の朝、さはやかな青空を余所に昔懐しいお屋敷の自分の部屋で読書を楽しんでゐましたら、一階の奥の風呂とおぼしき辺りからルルが「雪夫さん、雪夫さん」と呼ばはる声がするので、僕はあはてゝ本を傘に伏せて扉を飛び出し、ドタドタと階段を降りました。さうして風呂のドアーをドキドキしながら排しますとルルは居らず、今度は遠い離れのサンルームの辺りから「雪夫さん雪夫さん」と呼ばはる声が遠く聞へました。それで脱兎の如くサンルームに突進して部屋中の硝子を震はせて飛び込みましたら、一体どうした事か其処にもルルは居ずに、次は広いお屋敷の二階の裏テラスの辺りから、やゝ性急さを帯びた声で僕を呼ばはる声がしました。僕は飛蝗のやうに階段を駆け上がり、長い廊下を驀進してテラスに出るドアーを蹴り開けました。ぜえぜえと肩で息をしながら燦燦と陽のあたるテラスを一望してゐると、広いお屋敷の馬小屋の方角から、少し怒つたやうな語調で僕を呼ぶ声がしました。
 僕はぜえぜえといつたまゝ重い足で階段を降りて蹌踉と広場を駆け抜け、たゝらを踏んで馬小屋の藁にダイビングしました。馬小屋にはウラヌス号の血を享けた名馬アスホール号しか居ませんでした。馬に鼻づらを舐められてゐると、お屋敷の東角の図書室のあたりから「雪夫さんつたら!」と怒つたやうな声が聞こへてきました。勿論、図書室の棚から棚の隅々までルルを探しましたがゐません。息が上つて頭が朦朧としてきましたので、一階の階段ホールのわきにある居間によろよろと入つて、ゴブリン織りのカバーが掛かつたソファーに崩れこみました。
「あら。雪夫さん随分遅かつたぢやないですかッ」
 イキナリ直近でルルの声がしたので振り返るとルルがゐました。僕は驚愕してソファーのうへで三寸ほど飛び跳ねました。
 ソファーに座り直してルルに相対すると、彼女は白い襟が附いた勿忘草色のワンピースに高々と組んだ脚で、腕を組んでこはい顔をしてゐました。
「妾、ずつと此処に居たわよう。」
「其んな馬鹿な。色んな処からルルの声がするから僕、お屋敷中走り回つたんですよ。ギャッ。」
 ルルは憤然としてスックと立つと、猛獣の調教に使ふ短い鞭で僕を打擲しました。
「雪夫さん口ごたへするのかしらッ」
 僕は子犬のやうにアラビヤ絨毯のうへを転げまはり、お尻を高く突き出して頭を抱へこむと、上目遣ひでルルを畏れ見ました。ルルは己の手に握られた鞭に目をやるとハッとした様子で、其れを汚らしいものゝやうに床に投げ捨てると、蜜のやうにこぼれないかといふほどニッコリ笑つて僕の頬ぺたを優しく撫でました。
「マア妾つたら、此んなもの不可ませんわね。ホヽヽヽ。せつかく雪夫さんが来て下さつたんですもの、ゆつくりお茶でも頂きませう」
「ハイ」
 僕はおずおずとゴブラン織りのソファーに腰を沈めました。ルルはスージイ・クーパーの白陶磁に薄緑や薄桃色で花の描かれてゐる紅茶茶碗をふたつ並べて、銀のポットからとろとろと紅茶を注ぎました。さうして、カップソースと紅茶茶碗を手にして宙に浮かせた儘チラチラとこちらを窺ふやうにして、ルルにしては珍しくおずおずと口を開きました。
「あの…雪夫さんは怒らないですわね?」
「それあ怒りませんとも。よほど非道い事でもなければ」
 ルルは俯いて仕舞ひました。
「いゝへ、ルルに限つて非道いことなんかありませんよ。僕が怒るもんですか」
 僕は慌てて手を違ふ違ふと振つて、カップの紅茶をあらかた周りに振り撒いてしまひました。ルルの容色がパッと明るくなりました。彼女はニコニコしながら云ひました。
「妾ね、理化学研究所の手蔓でトテモ高性能な独逸テレフンケン製のスピーカーを手に入れたのよ。妾、嬉しくなつて…その…お屋敷の至る処に据へつけてね、」
 そのあと、ルルが盛大に泣いてゐるのを後ろに聞きながら分厚い樫の一枚板の扉をドシンと閉めると、僕は牡牛のやうに鼻息を荒くして、廊下をドシンドシンと踏み破る勢いでした。
「お前もやられたのか。」
 パンピネオが廊下の暗がりからヌッと鬱蒼とした図体を現しました。虎はげつそりと憔悴しきつた声をしてゐました。きつと広大なお屋敷の隅から隅までバターになるほど走り回らされたのでせう。僕は虎と何を喋るでもなく二階の納戸の、電気掃除機や電気冷蔵庫や電気椅子や大人数の来客用のオットマンなど下らない物が放りこんである隙間に閉じこもりました。


「一寸!妾のスヰート・ボールたち!」
 ルルが固く閉ざされた扉の向ふで快活に叫びました。
「あら間違へた、妾としたことが。ちよいとちよいと、妾のスヰート・ボーイたち!」
 ひたひたと分厚い扉の表面を掌で敲く音がします。パンピネオと僕は必勝鉢巻をきりりと締めたまゝ、だんまりを決め込みました。
「だんまりを決め込むつもりね!いいワ。だつたら妾にも考へがあるわ」
 パタパタと軽快なスリッパが遠のく音がして、しばらく経つと、またスリッパがパタパタと近づいてきました。
「パンピネオ」
 ルルが分厚い扉の向こうでノックしました。
「いま貴方にだけとつても美味しいものを持つてきたワ。貴方の大好物よ」
 パンピネオは重ねた前足の上にずつしりと顎を乗せて目を瞑むつたまゝ微動だにしません。ドアーの向ふではバタバタといふ騒がしい音と、コケーなどといふ断末魔の声が響き渡りました。
「活きのいゝ鶏なんだけど貴方が要らないなら銀座の菊水にでも払ひ下げてよ」
 パンピネオはぴくりと耳だけドアーに向けましたが、わざとルルに聞へるやうに大きな欠伸をしました。
「ぢやあ此れは如何かしら。」
 ドアーの向ふではたはたと団扇を煽る静かな音がして、扉の鍵穴から薄い煙がたなびきました。すると、それまでルルを無視してゐたパンピネオが鼻を高々と差し上げて、クンクンと其の煙の行方を追ふやうに熱心に嗅ぎました。さうして終には鍵穴にぴつたりと鼻をくつつけ、髭を下げてだらしない顔つきでゴロゴロと咽喉の奥で云ひだしました。
「さうよ。貴方の大好きなマタヽビよ。妾、南洋のジャングルまで往つてひと抱へもあるマタヽビの木を見つけたのよ!其れでパンピネオの為に妾そつくりの抱き枕を拵へたの」
 パンピネオは轟音のやうな地響きを立てゝゴロゴロと咽喉を鳴らし、金のドアノブにすりすりと巨大な図体を摺り寄せました。僕は慌てました。
「不可ない!これは罠だよパンピネオ。行つたら毛皮にされちまふよ!」
 パンピネオは相好を崩してとろんとした眼で煙の行方を鼻で追ひながら答へました。
「マタヽビは嘘をつかない。あゝいゝ香りだ!」
「さうよ!そのうへ妾の形をしてゐるのよ。四つん這ひでお尻を高々と上げてパンピネオに振り返つてゐる意匠だわ。妾、今だつてパンピネオに抱かれるマタヽビの抱き枕が羨ましくて、あられもない恰好で泣いてゐるのよ!」
「あゝルル!」
 パンピネオは理性を失ってよろよろとドアーに寄りかゝり、僕に振り向くと申し訳なさゝうな惨めな顔をしました。さうしてノブを器用に前足で回すと、ぴんと立てた尻尾の先をゆらゆらと揺らしながら出てゆきました。
「畜生。奴め性欲とマタヽビに負けやがつて。」
「あら。雪夫さんはまだ頑張るのかしら。妾、雪夫さんにもプレゼントがあつてよ」
 僕はドアーに背を向けて胡坐をかきました。
「さつきはパンピネオにだけいゝ物を持つてきたと云つてたぢやないか」
「それは…其のマタヽビなんか虎にしか御用がないぢやない。雪夫さんに御用のあるものよ!」
「信じられないね。」
「まああ。せつかく妾、二百円出してムーランルーヂュの明日待子さんに来て貰つたのになあ。」
 ルルは鍵穴の向ふで赤い唇をこつそり動かしました。
「強力な催淫薬を紅茶に混ぜて飲ませたからあとは雪夫さんのお楽しみ次第よ」
 ルルの背後から紛れもない明日待子のもじもじと切迫した声が聞こへました。
「ルル子さん、あたし、あの…躯が熱つぽくて壊れつちまひさうだわ。一体どうしたといふんでせうか。」
 僕は猛烈に悩みました。ルルの提案に折れて外へ出れば僕は憧れの明日待子さんを抱くことが出来ます。しかし、それではルルに負けたことになるので僕は誘惑を振り切りました。
「僕はそんな甘い餌には釣られないよ!」
「そんな殺生な」
 扉の外でルルと明日待子が叫びました。
「あたし、ずきずきしてなんだかおかしいんですけど憚りをお借りしていゝかしら?」
 明日待子の上ずつた声がし、間もなく遠くの憚りから感極まつた官能的な声が聞へてきました。ルルは腕を組んで考へこみました。
「仕方ないわね。」
 ルルはまたハタハタとスリッパを走らせて何処かへ行きました。しばらくすると数人の兵隊を従へて戻つて来たのが鍵穴から見へました。僕はドアーに背を向けて寝転びました。
「えゝ其処でいゝわ。もうちよつと右。アラそつちぢやないわ、右右、さうよ。ゆつくり据へて頂戴」
 ルルがなにか指示を出してゐます。気にかゝるのでふたゝび起き上がつて鍵穴に眼を押し当てると、目の前に重機関銃銃口がありました。僕は尻餅をつきました。
「雪夫さあん。出てこないと妾、機関銃で撃つわヨー。早く出ていらつしやい」
 僕は腰を抜かしたまゝドアーから少しでも離れやうとゐざり逃げました。
「まあ!返事もして下さらないんですね。射ち方はじめ!」
 分厚い胡桃の木の扉がバリバリと破壊されて、凄まじい硝煙と音響とともに数千発の銃弾がゐざり倒れた僕の上をすれすれに襲ひかゝりました。銃弾は物置の壁といはず荷物といはず容赦なくぶすぶすと突き刺さり炸裂します。僕は恐怖のあまり小便を漏らしてしまひました。
「撃つた。本当に撃つた。」
 僕は放心して呟きました。硝煙が薄くたなびく彼方からルルがしなやかに歩いてきました。
「あら生きてゐたの。まあいゝわ。いらつしやい」
 エナメルの丸い靴先にゐざり寄つて命乞ひをする僕の頭をルルはくりくりと撫でました。調子に乗つてすつきりしたふくらぎを抱へ込みパンピネオの真似をして鼻を摺りつけたら、思ひきり鳩尾を蹴られたので僕は転げまはりました。


 薄暮になつてお屋敷の玄関ポーチに出ると、身を切るやうな木枯しに吹き晒されました。ルルはクローシュ帽から断髪の切つ先をはみ出させ、天竺鼠の毛皮を縫ひつけた外套の襟を首に寄せました。
「おゝ寒い。妾、これから帝都座ホールに行くから貴方達を用心棒に連れて行くのよ。もつとも雪夫さんは用心棒には心許ないけれど、新宿なんて物騒ぢやない?」
 車廻しにイスパノスイザの1936年型が滑り込みました。ドアーから栗鼠のやうにルルが飛び込み、僕とパンピネオも乗り込みました。
「パンピネオが居ると毛皮要らずだわ。でも外が見へないわネ」
天賞堂様で時価三千円也の毛皮だぜ。」
「あら、妾パンピネオが一万円でも売らなくつてヨ。だつて…」
 ルルは何を想像したのか、それとも車内が暑くて蒸したからか頬を染めました。実際、イスパノスイザの車内は大きなパンピネオの縞毛皮に埋もれてゐたのです。新宿三丁目の交差点でイスパノスイザを降り、自動車はお屋敷に帰しました。ルルは道路を隔てた百貨店を見上げてぷんぷん怒りました。
「まー伊勢丹の前に降りちやつたワ。帝都座の真裏ぢやないの。」
「違ひますよ。あれは元々ほてい屋だつたのが伊勢丹に買収されたんですよ。ホラ、此処は帝都座の真下でせう?」
「アラッ本当だわ。妾てつきり雪夫さんに市電の車庫に連れ込まれるのかと思つたわ」
 帝都座のダンスホールは五階にあります。ヱレベータで二階、三階の森永キャンデーストアを通りすぎ、映画館を尻目に五階まで昇りました。
「映画は観ていかないんですか」
「いまかゝつてゐるのは『気まぐれ夫婦』位なものよ。それにこれから晩の部が始まるわ。けふはクリスマスイヴですもの、映画なんかより騒がなきゃ損だわ」
 帝都ホールは、ステージから天井にかけて金モールや万国旗、豆電球で煌びやかに装飾されてゐました。ホールの片隅にもみの木のツリーがしつらへてあつて、馴染みの客や綺麗なダンサー達が思ひ思ひに飾り付けをしてゐました。ステージでは既に中澤壽士のジャズバンドが賑やかに奏楽してゐます。
「ここのバンドはテイチクにジャズを沢山吹き込んでゐるからとても上手いのよ」
「上手いからレコードに入れてゐるんでせう」
「やあ、これは俺の曲だ」
 丁度エリントンの「タイガーラグ」がかゝつてゐました。
「虎はホールに這入れるんですか」
「パンピネオならもうリキーに化けてゐるわ」
「虎から俺に戻つただけだよ」
 リキーはりゆうとしたタキシードになつてゐました。ステージでは司会にわざわざ徳川夢聲が呼ばれて挨拶をしてゐました。
「今宵は降誕祭のイヴであるからして、大いに飲んで酔つぱらつて踊つて楽しむんであるんである。乾杯!」
 豆が爆ぜるやうなクラッカーが方々で鳴り、カクテルグラスは打ち鳴らされ、一斉に歓声が挙がりました。さうして立錐の余地を僅かに残したホールで紳士貴顕や粋がつた青年男女が曖昧に踊りました。リキーは流石に水際立つたダンス振りでタップまで披露して周囲の喝采を浴びてゐました。ルルは踊る人々の波の間に間に、ひときは背の高い男と踊つてゐるのがちらくらと見へてゐました。僕は傍で踊つてゐた東久邇宮殿下の袖を引張つて訊きました。
「あそこで踊つてゐる背の高い人は誰ですか」
「あゝあれはセール・フレーザー会社の白州次郎さんですよ。ツイこの間結婚したばかりださうです」
「ありがたう」
 僕は人の波をかき分けて背の高い白州次郎の後ろにまはり、向こう脛を思ひきり蹴りあげました。白州次郎が後ろを振り向いたと思つたら、其れは別人の、しかも女の人でした。
「やい、何を蹴りやがる。おいら新宿ぢやあ知れた顔だが貴様、何処の少年だ?」
「人違ひでした。御免なさい左様なら」
 さつさと逃げ出さうとクルリと踵を反すと、目の前に断髪の目が醒めるやうな美人が立ちふさがりました。
「ちよいとお待ち。妾たちはこのホールを根城にしてゐる刈首団といふんだがね。ターキーのお百合が喧嘩売られたからには顔貸して貰はうか」
「あ、あ、貴女はいはゆる不良少女ですか」
「不良とは何さ。妾は団長の刈首お玉だい。妾たちや金品は獲らないよ。その代はり首とは云はないが貴様のやうな不逞の大事な物を頂戴するのさ。」
 たちまち人ごみの中から悪さうな娘が十人ばかり蝟集しました。お玉は三つ揃いの派手なスーツの隠しからキラリと光るものを見せました。
「ひええええええお許し」
 僕は腰が抜けてへなへなとホールの床にへたれ込みました。
「こんな事なら明日待子ちやんとウーピーやらかしてゐたらよかつたよ」
「ウーピーなんて五年前の流行じゃないか。古いんだよ馬鹿」
 ホールの出口に向かつて、洋服の襟をターキーお百合に引きずられながら僕はすつかり観念して仕舞ひました。不良少女団の手にかゝつて不能になつてしまつたら、ルルにもお屋敷を追ひ出されるかもしれません。そのときです、思ひもかけずルルが漆黒のシルクの夜会ドレスの腰に白い腕をついて、不良少女の前に立ちました。
「その兄さんは妾が貰ふよ。こんな奴でも居ないと妾しや困つちまふんだ」
「あンたは誰だい。見かけないねえ」
「妾は浅草にも銀座にも神出鬼没のルル子だと云つたらどうだらうねえ」
 不良少女たちは一様に驚愕しました。刈首お玉はスッカリ恐れ入つて自ら土下座すると、団員にも土下座をするやうに急き立てました。
「さつさとお謝り。ルル子様に楯突いて殺られなかつた奴あ居ないんだ」
 ルルは首に下げてゐる長い真珠の首飾を手でいじりながら鷹揚に言ひました。
「雪夫さんを渡して貰つたらジュクは大目に見るさ。これでも忙しい渡り鳥でござんす」
 折りしも夜宴は酣となつてゐました。ルルは僕とパンピネオのリキーを引つ張つてステージに駆けあがつてグラスを片手に、大辻司郎からマイクロフォンを奪ひました。
「さあ、柊の枝の下でキスをしたら手打ちにして皆で仲良くしませう。」
 僕はルルの謎をひとつ加へて、混迷と歓喜の渦に巻かれながらクリスマスを迎へました。