さへずり草紙NEO

旧はてなダイアリーを引き継いでいます。

摩天楼の星子 1

「凄いわ!見て御覧なさい」
 マンハッタンの街で上空を見上げて星子さんが感嘆の声を漏らしました。彼女が軽く飛び跳ねながら指差す先に、エンパイヤ•ステイト•ビルやクライスラア•ビルといつた摩天楼の天辺すれすれに腹をかすめるやうに、巨大なツェッペリン飛行船が麻色の船体を夕陽に晒して静かに音もなく、然し威風堂々と滑つて行きました。
 大きなナツィスの鉤十字の描かれた赤い尾翼を見送りながら星子さんは地団駄を踏んで僕の胸ぐらを掴みました。
「あれに乗りたいわ!雪夫さん」
「どうせ巴里に行くんだから独逸に足を延ばして、フランクフルトから乗つて紐育に戻りませう」
「素敵つ。アレはツェッペリン伯号でせう?前に日本に来た…」
「うゝん、此れはヒンデンブルク号ですよ。前に来たのより新しくて大きい」
「あんな空のお魚みたいな船に乗つて世界旅行なんて、夢みたやうだわ!」
 星子さんはすつかりヒンデンブルク号に乗ると決め込んだ様子です。
「アレは何うやつて飛んでるのかしら?」
「水素が一杯に詰つてゐるんですよ、だから浮くんです」
「水素つたら瓦斯でせう?火が着いて燃へあがつたりなンかしないのかしら」
「アルミニュームの船体に瓦斯を詰めて、その上から布で覆つてあるから火が着くなんて未来永劫ありませんよ」
「マア安全なのね!」
「飛行機は空で止まつたら落ちるけれど飛行船は止まつたところでフハフハ浮いてるだけですからね」
「独逸まで行つたら是非乗りませう!」
「ウン!」
 飛行船の話題で盛り上がりながら、星子さんと一緒に居られてワクワクする心地を密かに隠し隠し歩いてゐたら、僕たちは何時の間にかマンハッタンの五番街を遥か抜けて百四十番街あたりにあるハーレムに来てゐました。
さうして夕闇のなか、目にも眩くサヴォイ•ボールルームのネオンが煌々と輝いてゐました。



 サヴォイ•ボールルームは四千人を飲み込むでホールで踊らせるといふ、化け物のやうに広いダンスホールです。そんなだゞつ広い場所なのでダンスバンドも大きい編成になつてゐるのだと、日本を出る前に裸の女目当てで読んだ「モダンダンス」に書いてありました。
 薄水色の肩出しワンピースの星子さんはそんな話を流し聞いてゐましたが、しかじかと見てゐたサヴォイの看板からクルッと振り返ると、両手を胸の前で組みながら懇願しました。
「私、此処にはいりたいワ、ね、いゝでせう?此処じやリンディ•ホップとかいふ曲芸みたいなダンスをやつてるさうよ?」
「面白さうぢやないですか。入りませう!」
 ボールルームでは既に楽団の演奏が始まつてゐました。矢張り、如何に大編成のジャズオーケストラと云へど、広大なボールルームでは音が散つてしまふと見へて、拡声器でフロアの隅々まで尖鋭的なフォックス•トロットを撒き散らしてゐます。
「これはホワイトヒートと云ふ曲よ。さう、だからアノ楽団はジミー•ランスフォード楽団ね!あゝ夢みたい!」
 その過激な急速テンポに乗つて、滑らかな肌の黒人の群れが、所々に白人を交へ、猿のやうに自在に腰を折つたりジタバタと宙を手脚で蹴りながらついたり離れたり、ペアで踊り狂つてゐました。
「これがダンスなんですか?日本のとは随分ちがふやうだ」
「それあ此方ではスヰング時代ですもの!雪夫さんも踊らないこと?」
「へ?」
 見れば精悍な黒人の男が幾分肌の色の薄い女性を軽々と腕に乗せて宙返りさせたり、自分の頭の上を飛び越へさせたりしてゐます。終ひには男も女も床に背中を擦り付けたりなどして、エクスタシイに浸りながら躰を叩きつけるやうに目まぐるしく乱舞してゐました。
その生命力の旺盛な様子は、僕には丸で別世界のやうに思はれましたが、星子さんはラメの入った薄紗のワンピースの裾をギュッと握りながら、瞳に或る種の情欲の色を浮かべて喰い入るやうに見つめてゐます。さうして僕の気持ちを汲んだやうに、潤んだ眸でダンスを見つめたまゝ呟きました。
「さうよ雪夫さん、あれよ。あれをするのよ」
 僕は激しくかぶりを振ろうとしましたが、すつかりその気の星子さんに、正面から上目遣ひに見据へられて仕舞ひました。
「出来るわよね?」
「ちよつと待つてください」
 僕はひとまず星子さんの衣裳を鮮やかなオレンジ色の短めなスカートと真白いシャツに書き換へました。其れから強精剤のラボカを一ダースのケースで書き加へました。星子さんは、フワッと柔はらかく軽いスカアトの裾をつまみ上げて、満更でない顔つきです。さうして、ラボカのケースを見てギョッとしました。
「そんなにラボカを飲んだら死んでしまふわ!」
「前に戦車に轢かれたときに肩を折つたからこれくらい飲まないとトテモ星子さんを担いだり出来ないんだよ」
「あら私のせいなの?」
「いゝへ、心臓だつて悪いんです。デモどのみちラボカは翼を授けて呉れるでせう」
「雪夫さんは何んでもするのね!」
「それは」
 星子さんの為ですと云はうとしたものゝ、余り喜んで貰へないやうな気がして、止めて仕舞ひました。



 ラボカの効果は抜群でした。僕は星子さんを人形のやうに空中に手荒く投げつけると思ひきや其の手を掴んで肩越しに宙返りさせたり、磁石が強力な磁力でピッタリ引つ付いたり絶対的な反発力で弾けて離れたりするやうに、息の合つたところをフロアの黒人ダンサーたちに存分に見せつけました。
 ジミー•ランスフォード楽団も、初めこそ「ハーレムから来た男」を格好よく吹かしていましたが、途中からプレイヤーが吹くのも忘れて僕らのダンスに魅入りました。さうして、やうやうのことで演奏が終はつて、派手に星子さんをフロアに滑り投げて終はると、何千の観衆から轟のやうな拍手が湧きました。
 僕は遠い遠いランスフォード楽長の許に全速力で駆け寄つて、彼の耳に囁きました。バンドリーダーは愛嬌のある黒い顔を破顔させてウヰンクしました。
僕はゼエゼエ云ひながら星子さんの処へ戻ると、其の手を取つて小走りでまだざわついている観衆を掻き分け、やつとのことでジミー•ランスフォード楽団へ彼女を送り届けました。
「星子さんは歌手だからランスフォード楽長が何か歌つてほしいつて!」
 星子さんは目を白黒させました。
「私、紐育で歌へるのね!しかも此処はサヴォイよ。嬉しいわ!!」
ジャズオーケストラがイントロを奏ではじめました。甘いスヰングです。フロアの人という人は緩やかなスロー•フォックストロットに身を委ねました。

〽あゝ君が為に狂ひし吾が胸
 涙は溢るゝよ 空曇るまで
 たとへ友みな吾を捨て去りゆくとも
 いまは吾は恋の虜 君が下僕
 あゝたゞ 君が為に狂ひし吾が胸
  (貴方に夢中 "You're driving me crazy! what did I do?")

 南里文雄に似た野太いトラムペットがフレーズをなぞつてハイノートで〆を決めるとアッパータウンの住民もさうでない外から来た踊り手も陶然と吐息を漏らして喝采しました。
「もう一曲歌はせて貰うわね。折角ですもの、楽しまなくちや!…ぢやあ、バイミーア•ビスト•ドゥ•シェーン!あら、一九三六年ぢや未だアメリカで流行つてなかつたかしら?マア来年には流行るからいゝわね?」
 ジミー•ランスフォードがOKだと身振りで示しました。
「流石ジミーね! 今夜は日本語で歌ふわよ。素敵な貴女!」

〽Bei mir bist du schön お聴きなさい 素晴らしい言葉を
 Bei mir bist du schön この意味を 貴女だけに言いましょう
 誰もしらない素敵な言葉 とても嬉しい甘い言葉よ
 Bei mir bist du schön この意味を 貴女だけに言いましょう
  (君は素敵だ "Bei mir bist du schön")

 クラリネットが重なつてリードに繋がるイントロから、やがてクラリネットがほぐれてゆくフィナーレまで、今度は誰も踊らずに星子さんのヴォーカルに耳を傾けてゐます。
 星子さんは四千の観衆の心を鷲掴みにして、恰も心のリンディ•ホップを踊らせてゐるやうでした。彼女が歌ひ終へると、僕は感激のあまり臆面もなく星子さんを肩口から抱き寄せて、予告もなく柔はらかな口づけを与へました。
「キャッ。皆さんが見てるわよぅ」
アメリカ式ですよ」
 ボールルームの空気は甘く打ち解け、四千のキスの音がさゝさかに響きます。マンハッタンの一夜は陶酔するやうなリズムとエクスタシーのうちに更けてゆきました。

星子の船出

1
 或る日、お天気がいゝのでウキウキと気持ちよくなつてお屋敷の長い長い廊下を暑いくらいの陽光に差されながら、タタタタヽヽヽヽと高々とお尻を掲げて雑巾がけしてゐたら、前方からミニ戦車に乗つた星子さんがキュルキュルキュルキュルとやつて来て、砲塔から身を乗り出すと
「雪夫サアアーン!貴方よく働くからけふはご褒美に洋食屋で御馳走させて頂戴ィ〜」
と、手を喇叭にして呼ばはりました。
ひよいと頭をあげたらスグ目の前に豆戦車が迫つてゐたので吃驚仰天して尻餅をつくと、飛行帽をかぶつた星子さんの戦車はキュラキュラキュラキュラとキャタピラーの響きも軽快に僕を轢いて、長い廊下に泥の二本筋を残して去つてゆきました。
僕はヒクヒクと痙攣したまゝ、下男に発見されるまで小一時間ばかり廊下に打ち捨てられてゐました。


2
「あら、そんなに大袈裟に痛さうにしなくてもいゝぢやない。ちよつと玩具に乗つかゝられた位で。此処のグリルは永遠に煮込んだかと思ふくらい濃厚なドミグラスソースが名物なのよ」
 僕は銀座裏の「グリル・ドヱム」で白いテエブル掛けのかゝつた卓を挟んで、星子さんと向かいあつてゐました。
「痛さうだなんて滅相もないですよ。星子さんに轢かれたのならむしろ運が向いてきさうです。」
 星子さんがパッと顔を輝かせました。本当はまづい事をしたと思つてゐたやうです。
「マア雪夫さん強いのネ。嬉しいわ!ぢやあ次はお屋敷の庭で私のダットサンにちよつとでいゝから轢かせて貰へないこと?」
 僕はぎょっとして身を固くしました。
「イヤですよ。本物の自動車相手では只で済まなさゝうです。」
 星子さんは哀れを誘ふやうに眉を寄せ、憐憫の色を瞳に浮かべて上目遣ひにくねくねしました。
「ホンのちよつと…アノ、厭だつたら下半身、うゝん、足の先くらいでもいゝから!本当に一寸なのよ」
 星子さんが指先で三センチほど示して哀願するので、僕はツイ同情してしまひさうになつて腕を組んでウームと難しい顔をしました。星子さんの顔がまたパッと輝きました。
「まあ、いいのネ!やつぱり私の雪夫さんだわ!格好いゝ男の中の男だワ!」
「いゝへ!駄目です駄目です!微塵もOKなンて云つてゐません!」
「何ふして厭なのさ! 可笑しいわ。筋が通らないわ!」
「ぢやあ星子さんのお願ひは筋が通つてゐるんですか」
「戦車に轢かれてるのに何ふして自動車が駄目なのよ!そんなだから雪夫さんは私にモテないんだわ!弱虫よ!仏蘭西では貴方みたいのをフニャチンつて云ふのよ」
「ふにやちんは仏蘭西語でcouille molleと云ふんですよ」
「いゝへ、ふにやちんで結構よ。さういふのを轢かれ者の小唄と云ふんだわ」
 そこへグリルのボイが新しい料理の皿を捧げ持つてきました。
「牛タンのドミグラス煮込みで御座います」
「マアヽヽ美味しさう」
 フォークを入れてひと口ずつ食べた星子さんは僕と顔を見合はせて歓声を上げました。
「とつても柔らかいわ!」
 僕はすこし悪戯心を出しました。
「星子さんの云ふふにやちんとどつちが柔はらかいの?」
 星子さんは赤くなつて俯いてしまひました。さうして、周囲が静かでなかつたら決して聞きとれない程の小声で答へました。
「こつち。」
 グリルのお客はみんな呆れたやうに此方を見てゐましたが、馬鹿馬鹿しいとでも云ふやうに一様に首をすくめました。

 約束通り勘定を払つて外へ出た星子さんと僕は自然に手をつないでゐました。
「美味しかつたでせう?私こゝで雪夫さんに食べさしたかつたのよ。」
「嬉しい!ぢやあ今度は僕が星子さんに御馳走しませう。」
「アラどうしませう。雪夫さんに其んないゝお店の見当がつくのかしら」
「あるとも。むかし奥様に教へて貰つたカフヱーが此の辺りに…」
 星子さんはピタと立ち止まつて、いきり立ちました。
「雪夫さん嫌ひだわ!女心も繊細なメンタルも判らない薄らトンカチね!ウッカリにも程がある!」
 僕は星子さんに背中から飛び蹴りを食らつて二、三回地面を転がり、分厚い木の扉にぶつかつて止まりました。フラフラと頭の周りに星を見ながら立ち上がると、其処は折良くスパニッシュ趣味のバアでした。
「星子さん、此処は何ふですか?たつたいま僕が見つけたんです。」
「だつたらいゝわ。素敵なお店ね」
 バアの中は薄暗く、しかも個室に分かれてゐました。白いお仕着せを着たボイは星子さんと僕を個室のひとつに案内するとメニュウを渡し、テヱブルの側に立つて注文を待つてゐます。
「何にしませうね」
「雪夫さんの飲めるものなら大概飲めるわ。だつて雪夫さんなんだもの、大したものは飲めやしないに決まつてるわ。お水みたいなものでせう。」
 僕はシャンパンを注文しました。
 スマートな流線型のグラスの底から細い泡が立つてゐるシャンパンで乾杯した僕は、忽ち酔つ払つてしまひました。星子さんも目元をほの紅くしてゐます。さうして酔つてみると、気の強さうな星子さんが意外にも子供のやうにあどけない表情をみせるのが目に立ちました。
「なによ。なに私の顔を凝つと見つめてゐるのよ。気持ち悪いわ」
「星子さんつて無邪気なあどけない顔もするんですね。かと思つたらヴァムプみたいな小悪魔のやうな顔つきにもなるし、トテモ表情が豊かで魅力的だから見とれてゐるんですよ」
「マアありがたう」
 星子さんは満更でもなさゝうに答へながらも髪のかゝつた頬を紅潮させて、恥ずかしさを隠すやうにグラスを呷ると、テヱブルに両腕を突いて挑発するやうに酔眼の顔を突き出しました。
「雪夫さん其れで甘い言葉を囁いてゐるつもり?口説いてみなさいよ。サア、雪夫さんに出来るものなら見ものだわ」
「だつたら此のお話を三話くらい前から読み返して御覧なさい。星子さんと初めて会つた時から僕は好きだつたんですよ。一目惚れですよ。恋して仕舞つたんだ。」
「さうだつたかしら?私まるで気がつかなかつたわ。デモありがたう!」
 星子さんは両手で顔を覆つてジタバタしました。
「だいゝち星子さんはキャラクターをしつかり持つてゐるし、聡明さに覆われてゐるし、優しいし、女らしいコケットがたつぷりですよ。誰が惚れずにゐられませう。」
 彼女はテヱブル掛の端をギュッと握りしめ、恍惚となつてすこし艶かしい声を上げたかと思ふと、身を捩つて照れました。
「嬉しいワ!嬉しいワ!」
 僕は勢いづいて椅子を弾き飛ばすと、ダッと立ち上がりました。
「付き合つてください!」
「厭よ!」
 星子さんはグラスを掲げたまゝ脚を組んで、髪を散らせながら冷然とそつぽを向きました。僕は愕然として腰から床にくだけました。
「ど、どうしてですか?」
「ぢやあ雪夫さんはどうして私が好きなのかしら?」
「恋に理由があるでせうか?」
「私には理由がほしいわ。」
「貴女と居ると生きてゆけるのです。なぜかといふと、自らを犠牲にしてゞも無償の愛を貴女に捧げたいからです。こんなに積極的なアタックをするのは初めてなんだ。」
「それあ重いわ。それに雪夫さんは恋が成就しちや雪夫さんぢやないでせう?」
「い、今まではさうだけれど…僕だつて成長するンです」
「私、雪夫さんの作文はぜんぶ読んで知つてゐるわ。デモ雪夫さんみたいなやゝこしい男なんか真平ご免だわ。見てる分にはいゝけど付き合ふには餘りにも冒険よ。それに私いゝ加減な返事はスグには出来ないことよ。」
「あれはどれも創作ですよ。現実に起きた事なんて一つだつてありやしません。」
「さうなの?そもそも雪夫さんはあゝいふ激しい女が好きなんでせう?」
「星子さんだつて充分激し…」
星子さんは激高して髪を乱しながらスクッと立ち上がり、フォークをテエブルに深々と突き刺しました。
「他の女と一緒にしないで頂戴!私は私よ!」
「勿論だよ。星子さんは二人とゐないよ。だから好きなんだ!」
「雪夫さんの云ふことなんか信用できるもんですか。それに雪夫さんなんか一寸面白ひ玩具より上とも下とも思へないわ。チットモ好みぢやないのよ」
「玩具にでも何んでもすればいゝぢやないですか。」
「私だつて恋はしたいけれど雪夫さんなんてトテモ可笑しくて…さうね、往来で猫が喇叭を吹いて行進してゐたら一寸は考へ直すかしら?」
 星子さんが勝ち誇つたやうに顎を反らしました。
「そんな無茶なこと、ある訳がないぢやないか!貴女は小悪魔だ!」
「いゝわよ。私は小悪魔よ!ホッホッホヽヽヽヽ」


3
 僕は勘定を済ませ、分厚い扉を排して星子さんと靄のかゝつた美しい五月の夜の路面に立ち出ました。すると丁度目の前を、省電の制帽をかぶつたサバトラ猫が二本足で立つて喇叭をプウプウと吹きたてながら、同じやうに二足歩行でヨチヨチと歩く仔猫を数匹従へて行進してゆきました。星子さんは目をごしごし拭いました。
 つつかへたり遅れを取り戻さうと早足になつたりする最後の仔猫が産毛のやうにポワポワした尻尾の先を揺らしながら横丁の角に消へるのを見送ると、星子さんは漸く口が訊けるになつたやうでした。
「雪夫さん、いくら自分の世界だからつて何でもしていゝ訳じやないわ」
「いま云はないでいつ云ふんだらう?独りよがりなのは分かつてゐるよ。シャンクレールの夜のときから、其れは判つてゐたんだ。」
「貴方は本当に何ふしやうもなく困つた人ね」
 僕はバアを出た道路の、街頭が切れた暗がりで星子さんを強く抱きしめました。
 星子さんの腕がだらりと力を失ひ垂れ下がりました。彼女は小鳩のやうに柔らかく、小鳩のやうにおとなしくなりました。僕は彼女の耳の中へ囁きました。
「キスをするよ?」
「うそつき。」
 星子さんはふはふはと正気の定まらない潤んだ瞳で甘く呟きました。
 僕は星子さんの瞳を凝つと見つめました。目と目がかつちり合つたら月が雲間に隠れて辺りは真暗になりました。星子さんは陶然として目を閉じ、格好のいゝ唇を突き出しました。
 其処にはたゞ星子さんの柔らかさだけがありました。
「ぐぐぐ」
 星子さんは長い口づけに苦しくなつたのか唇をもぎ離して喚き始めました。
「違ふわ!違ふわ!これぢやあ雪夫さんのお話にならないぢやないの!すこし書き直して頂戴!」
「仕方ないなあ」

 僕は物語を両手でまさぐつて孔を拵へると、首を突つこんで藻搔きながら物語から抜け出しました。さうしてお屋敷の玄関のたゝきに転げ落ちると、ダダダダダと階段を駆け上がつて書斎机に陣取りました。

 天井にはミラアボールが物憂げにゆつくりと回転して、薄暗いフロアに気まぐれな光をばら撒いてゐます。濡れ雑巾で窓ガラスを引つ叩いたやうなパシャーンといふ鋭い音がしたかと思ふと、せわしない光の下で六人編成のジャズバンドがジャカジャカとジャズりはじめました。南洋の蛇のやうに太くうねつてウロウロ迷走するテナーサックス。つんざくやうにシャウトしたり呻き声をあげるトラムペット。ベコベコの音で逞しくトラムペットに闘いを挑むトロムボーン。星を散らすやうなピアノ。それぞれの脚にタップシューズを履いた百足のやうなバンジョー。濡れ雑巾の正体の、腹にこたへるドラムスはときどき木魚をぽこぽこ鳴らしたり噴水のやうなシムバルを叩いたり、演奏の邪魔に余念がありません。其のジャズバンドをバックに星子さんは白い諸肌脱ぎのドレスで軽くスヰングしながら、自分の身だしなみをしかじかと確認してゐます。
「あら、斯ういふのが書けるなら最初からさうすればよかつたのに!ついでで悪いけれど、靴は燃え立つやうな真赤にして頂戴。」
「はいはい」
「ちよつと!面倒くさがらないで!」
 星子さんは赤いシューズを放るやうに黒いストレッキングの脚で床と宙を蹴り、激しくスヰングしました。ジャズバンドが古いナンバーの「ヴァンプ」を演奏しはぢめました。

〽誰でも踊る 夢中で踊る レディーをかゝえ
 調に合ふなら シミーも尚且つフォックストロット 何でもおいで
 一踊り、踊らうよ 一歌ひ、歌はうよ
 心配は、どこかへ飛ばして さあおいで
 渦を巻き、巻き返す 歓楽の一踊り、
 昼も夜も
 あゝ― 踊るうちに踊るうちに 踊るうちに踊るうちに
 あゝ― 意思疎通し意思疎通し 意思疎通し意思疎通し
 あゝ― 天下は泰平天下は泰平
 みんながハッピーみんながハッピー
 みんながハッピーさ!グッド!!
                     (「ヴァンプ」堀内敬三訳詞)

 踊りながら歌ふ星子さんは衣装が白いからか、ヒラヒラ舞ふ蝶々に見へました。――――――と、彼女は両手を広げ、首をすくめて僕に訴へました。
「それは月並みな表現よ!」
「賛辞が足りませんでしたか?」
「さういふ訳ぢやないけど…」
 星子さんは深いブルーのナイトドレスに、金色に光るヱヂプト風の小さな首飾りを揺らし、黒い長手袋の捩れを気にして直しました。
「……今度はどこへ連れてこられたのかしら?」
「此処はベルゲンランド号の一等船室の甲板ですよ。」
 塩を帯びた粘ばつこい夜風に吹かれながら僕は乱れる髪をおさへおさへ答へました。
「ベルゲンランド?」
レッドスターラインの豪華客船です。僕らは横浜から乗り込んだんですよ。 さう、貴女はこの船に乗り組んでゐるダンスバンドの歌姫として契約したんです。」
 ベルゲンランド号は青黒い海面に白く泡立つ航跡を曳きながら、二〇ノット近くの快速で海原を切り裂いて進んでゐました。陽が落ちて間もないスカイブルーの空を背景にして、幾尾もの飛び魚が船と並行して円弧を描いて飛んでゐました。星子さんは潮風にドレスの裾をはためかせながら、遠くから見たら恰も挑むやうな恰好で僕に顔を突きつけました。
「マアッぢやあ私、紐育に行けるのね!」
「紐育だけぢやないよ。亜米利加でノルマンディ号に乗り継いでシェルブールへ行くんだ。最終の目的地は巴里さ」
「!」
 星子さんはもう驚喜のあまり目を見開いて長手袋の両掌を口元で固く握り合はせたまゝ、物も云ふことを忘れてゐました。
「潮風に吹かれつぱなしなのも厭だから船に入りませう。それにサルーンでは乗組バンドの演奏で星子さんが唄う事になつてゐるんだから」
「それは大変だわ」
 サルーンでは既に煌々と明るいシャンデリヤの下に、一等船室の旅客を中心とした正装の紳士淑女貴顕が集つており、珈琲や軽いカクテルを嗜みながらダンスバンドのために設へてあるひな壇の周囲を遊弋してゐました。英語だけでなく仏蘭西語やドイツ語、日本語の入り交じる喧騒を、高級な羽毛布団の羽毛をぜんぶ空中に吐き出したやうなフワッと軽いサックスの合奏で「ブルームーン」が始まりました。すると金髪や黒髪や髪飾りのあるのや無いのや、腕を露わにしたレディとタキシードの黒が映えて、みな緩やかに抱き合つて踊りはぢめました。
「いけないッ。遅れさうッ」

ブルームーン 流れ微かに 夢を囁く 夢を囁く
 ブルームーン 独り唄へば 涙溢れくる 涙溢れくる
 淡き恋の想出 浮かぶ君の面影 今宵独り静かに 心和むこの丘
 ブルームーン 過ぎし昔の 夢よ懐し 夢よ懐し

 「失敗つたワ!うつかり日本語で唄つちやつたぢやないの!」
 星子さんは白人楽士ばかりの楽団の前で狼狽へました。すると、さゝやかな拍手と共にバンドを囲んだダンス客たちは、つい先ごろまでゐた日本に思ひを馳せてか、星子さんのヴォーカルをたいそう喜んで、声を掛けてきました。粋で愛嬌のあるバンドリーダーは星子さんを、大丈夫だからとでも云ふやうにがつちりと分厚い胸板に軽く抱きしめました。さうして、耳元に次の曲を囁くと洒脱にウィンクしてバンドに振り返りました。
 僕は貧相な形ばかりの三つ揃ひでサルーンの隅つこに佇んで、たゞその社交場に圧倒されてドキドキしながら、流れに身を任せる花を見るやうに外国人の踊りに見惚れてゐました。メリハリのくつきりと付いた星子さんのヴォーカルは外国人にも一寸したカタルシスを与へたらしく、「上海リル」や「コンチネンタル」や「ホエア・ザ・レイジイリヴァー・ゴーズ・バイ」を唄ひ終はつてダンス客からてんでに激賞された星子さんがはうはうの態でサルーンの壁伝ひに僕の側へ駆け寄つて来ました。
「サア今度は私、踊る番だわ。雪夫さんお相手して呉れないこと?」
「ボボ僕は踊るなンて」
「踊れるわ。スヰングでもボックスが基本なんだから」
 其の言葉の通り、僕は星子さんのサテンのドレスの感触と躰を掌に感じながら踊ることが出来ました。
 小気味よく汗をかいてデッキに出ると、視界に入るかぎりの空は満天の星に覆はれてゐました。水平線は見へませんが、暗い海に波頭が時おり白い照り返しをみせます。後ろから随つてきた星子さんは「まア綺麗」と呟きました。それは心に沁みて悲しくなる美しさでした。
 僕は彼女の瞳を覗きこんで懇願しました。
「やつぱり駄目かい?」
「まだ勇気が要るわね。此の儘で楽しくお付き合いしてゐればいいぢやない?」
 僕は星子さんの云ひ終はるのも待たずに形のよい唇に被さりましたが、彼女に上手くかはされました。僕はばつが悪くなりました。
「それはさうだけど心がモヤモヤするンだよ。自分がいま何処にゐるのかも判らない。」
「ぢやあ雪夫さんが其れを確かにして頂戴」
さうして僕の耳にやさしく
「ちよつとだけ轢かせて呉れるわネ」
 と甘へるやうに吹き込みました。僕は、星子さんならいゝかなと少し思つてしまひました。(続)

1

 或る日、お天気がいゝのでウキウキと気持ちよくなつてお屋敷の長い長い廊下を暑いくらいの陽光に差されながら、タタタタヽヽヽヽと高々とお尻を掲げて雑巾がけしてゐたら、前方からミニ戦車に乗つた星子さんがキュルキュルキュルキュルとやつて来て、砲塔から身を乗り出すと
「雪夫サアアーン!貴方よく働くからけふはご褒美に洋食屋で御馳走させて頂戴ィ〜」
と、手を喇叭にして呼ばはりました。
ひよいと頭をあげたらスグ目の前に豆戦車が迫つてゐたので吃驚仰天して尻餅をつくと、飛行帽をかぶつた星子さんの戦車はキュラキュラキュラキュラとキャタピラーの響きも軽快に僕を轢いて、長い廊下に泥の二本筋を残して去つてゆきました。
僕はヒクヒクと痙攣したまゝ、下男に発見されるまで小一時間ばかり廊下に打ち捨てられてゐました。


2
「あら、そんなに大袈裟に痛さうにしなくてもいゝぢやない。ちよつと玩具に乗つかゝられた位で。此処のグリルは永遠に煮込んだかと思ふくらい濃厚なドミグラスソースが名物なのよ」
 僕は銀座裏の「グリル・ドヱム」で白いテエブル掛けのかゝつた卓を挟んで、星子さんと向かいあつてゐました。
「痛さうだなんて滅相もないですよ。星子さんに轢かれたのならむしろ運が向いてきさうです。」
 星子さんがパッと顔を輝かせました。本当はまづい事をしたと思つてゐたやうです。
「マア雪夫さん強いのネ。嬉しいわ!ぢやあ次はお屋敷の庭で私のダットサンにちよつとでいゝから轢かせて貰へないこと?」
 僕はぎょっとして身を固くしました。
「イヤですよ。本物の自動車相手では只で済まなさゝうです。」
 星子さんは哀れを誘ふやうに眉を寄せ、憐憫の色を瞳に浮かべて上目遣ひにくねくねしました。
「ホンのちよつと…アノ、厭だつたら下半身、うゝん、足の先くらいでもいゝから!本当に一寸なのよ」
 星子さんが指先で三センチほど示して哀願するので、僕はツイ同情してしまひさうになつて腕を組んでウームと難しい顔をしました。星子さんの顔がまたパッと輝きました。
「まあ、いいのネ!やつぱり私の雪夫さんだわ!格好いゝ男の中の男だワ!」
「いゝへ!駄目です駄目です!微塵もOKなンて云つてゐません!」
「何ふして厭なのさ! 可笑しいわ。筋が通らないわ!」
「ぢやあ星子さんのお願ひは筋が通つてゐるんですか」
「戦車に轢かれてるのに何ふして自動車が駄目なのよ!そんなだから雪夫さんは私にモテないんだわ!弱虫よ!仏蘭西では貴方みたいのをフニャチンつて云ふのよ」
「ふにやちんは仏蘭西語でcouille molleと云ふんですよ」
「いゝへ、ふにやちんで結構よ。さういふのを轢かれ者の小唄と云ふんだわ」
 そこへグリルのボイが新しい料理の皿を捧げ持つてきました。
「牛タンのドミグラス煮込みで御座います」
「マアヽヽ美味しさう」
 フォークを入れてひと口ずつ食べた星子さんは僕と顔を見合はせて歓声を上げました。
「とつても柔らかいわ!」
 僕はすこし悪戯心を出しました。
「星子さんの云ふふにやちんとどつちが柔はらかいの?」
 星子さんは赤くなつて俯いてしまひました。さうして、周囲が静かでなかつたら決して聞きとれない程の小声で答へました。
「こつち。」
 グリルのお客はみんな呆れたやうに此方を見てゐましたが、馬鹿馬鹿しいとでも云ふやうに一様に首をすくめました。

 約束通り勘定を払つて外へ出た星子さんと僕は自然に手をつないでゐました。
「美味しかつたでせう?私こゝで雪夫さんに食べさしたかつたのよ。」
「嬉しい!ぢやあ今度は僕が星子さんに御馳走しませう。」
「アラどうしませう。雪夫さんに其んないゝお店の見当がつくのかしら」
「あるとも。むかし奥様に教へて貰つたカフヱーが此の辺りに…」
 星子さんはピタと立ち止まつて、いきり立ちました。
「雪夫さん嫌ひだわ!女心も繊細なメンタルも判らない薄らトンカチね!ウッカリにも程がある!」
 僕は星子さんに背中から飛び蹴りを食らつて二、三回地面を転がり、分厚い木の扉にぶつかつて止まりました。フラフラと頭の周りに星を見ながら立ち上がると、其処は折良くスパニッシュ趣味のバアでした。
「星子さん、此処は何ふですか?たつたいま僕が見つけたんです。」
「だつたらいゝわ。素敵なお店ね」
 バアの中は薄暗く、しかも個室に分かれてゐました。白いお仕着せを着たボイは星子さんと僕を個室のひとつに案内するとメニュウを渡し、テヱブルの側に立つて注文を待つてゐます。
「何にしませうね」
「雪夫さんの飲めるものなら大概飲めるわ。だつて雪夫さんなんだもの、大したものは飲めやしないに決まつてるわ。お水みたいなものでせう。」
 僕はシャンパンを注文しました。
 スマートな流線型のグラスの底から細い泡が立つてゐるシャンパンで乾杯した僕は、忽ち酔つ払つてしまひました。星子さんも目元をほの紅くしてゐます。さうして酔つてみると、気の強さうな星子さんが意外にも子供のやうにあどけない表情をみせるのが目に立ちました。
「なによ。なに私の顔を凝つと見つめてゐるのよ。気持ち悪いわ」
「星子さんつて無邪気なあどけない顔もするんですね。かと思つたらヴァムプみたいな小悪魔のやうな顔つきにもなるし、トテモ表情が豊かで魅力的だから見とれてゐるんですよ」
「マアありがたう」
 星子さんは満更でもなさゝうに答へながらも髪のかゝつた頬を紅潮させて、恥ずかしさを隠すやうにグラスを呷ると、テヱブルに両腕を突いて挑発するやうに酔眼の顔を突き出しました。
「雪夫さん其れで甘い言葉を囁いてゐるつもり?口説いてみなさいよ。サア、雪夫さんに出来るものなら見ものだわ」
「だつたら此のお話を三話くらい前から読み返して御覧なさい。星子さんと初めて会つた時から僕は好きだつたんですよ。一目惚れですよ。恋して仕舞つたんだ。」
「さうだつたかしら?私まるで気がつかなかつたわ。デモありがたう!」
 星子さんは両手で顔を覆つてジタバタしました。
「だいゝち星子さんはキャラクターをしつかり持つてゐるし、聡明さに覆われてゐるし、優しいし、女らしいコケットがたつぷりですよ。誰が惚れずにゐられませう。」
 彼女はテヱブル掛の端をギュッと握りしめ、恍惚となつてすこし艶かしい声を上げたかと思ふと、身を捩つて照れました。
「嬉しいワ!嬉しいワ!」
 僕は勢いづいて椅子を弾き飛ばすと、ダッと立ち上がりました。
「付き合つてください!」
「厭よ!」
 星子さんはグラスを掲げたまゝ脚を組んで、髪を散らせながら冷然とそつぽを向きました。僕は愕然として腰から床にくだけました。
「ど、どうしてですか?」
「ぢやあ雪夫さんはどうして私が好きなのかしら?」
「恋に理由があるでせうか?」
「私には理由がほしいわ。」
「貴女と居ると生きてゆけるのです。なぜかといふと、自らを犠牲にしてゞも無償の愛を貴女に捧げたいからです。こんなに積極的なアタックをするのは初めてなんだ。」
「それあ重いわ。それに雪夫さんは恋が成就しちや雪夫さんぢやないでせう?」
「い、今まではさうだけれど…僕だつて成長するンです」
「私、雪夫さんの作文はぜんぶ読んで知つてゐるわ。デモ雪夫さんみたいなやゝこしい男なんか真平ご免だわ。見てる分にはいゝけど付き合ふには餘りにも冒険よ。それに私いゝ加減な返事はスグには出来ないことよ。」
「あれはどれも創作ですよ。現実に起きた事なんて一つだつてありやしません。」
「さうなの?そもそも雪夫さんはあゝいふ激しい女が好きなんでせう?」
「星子さんだつて充分激し…」
星子さんは激高して髪を乱しながらスクッと立ち上がり、フォークをテエブルに深々と突き刺しました。
「他の女と一緒にしないで頂戴!私は私よ!」
「勿論だよ。星子さんは二人とゐないよ。だから好きなんだ!」
「雪夫さんの云ふことなんか信用できるもんですか。それに雪夫さんなんか一寸面白ひ玩具より上とも下とも思へないわ。チットモ好みぢやないのよ」
「玩具にでも何んでもすればいゝぢやないですか。」
「私だつて恋はしたいけれど雪夫さんなんてトテモ可笑しくて…さうね、往来で猫が喇叭を吹いて行進してゐたら一寸は考へ直すかしら?」
 星子さんが勝ち誇つたやうに顎を反らしました。
「そんな無茶なこと、ある訳がないぢやないか!貴女は小悪魔だ!」
「いゝわよ。私は小悪魔よ!ホッホッホヽヽヽヽ」


3
 僕は勘定を済ませ、分厚い扉を排して星子さんと靄のかゝつた美しい五月の夜の路面に立ち出ました。すると丁度目の前を、省電の制帽をかぶつたサバトラ猫が二本足で立つて喇叭をプウプウと吹きたてながら、同じやうに二足歩行でヨチヨチと歩く仔猫を数匹従へて行進してゆきました。星子さんは目をごしごし拭いました。
 つつかへたり遅れを取り戻さうと早足になつたりする最後の仔猫が産毛のやうにポワポワした尻尾の先を揺らしながら横丁の角に消へるのを見送ると、星子さんは漸く口が訊けるになつたやうでした。
「雪夫さん、いくら自分の世界だからつて何でもしていゝ訳じやないわ」
「いま云はないでいつ云ふんだらう?独りよがりなのは分かつてゐるよ。シャンクレールの夜のときから、其れは判つてゐたんだ。」
「貴方は本当に何ふしやうもなく困つた人ね」
 僕はバアを出た道路の、街頭が切れた暗がりで星子さんを強く抱きしめました。
 星子さんの腕がだらりと力を失ひ垂れ下がりました。彼女は小鳩のやうに柔らかく、小鳩のやうにおとなしくなりました。僕は彼女の耳の中へ囁きました。
「キスをするよ?」
「うそつき。」
 星子さんはふはふはと正気の定まらない潤んだ瞳で甘く呟きました。
 僕は星子さんの瞳を凝つと見つめました。目と目がかつちり合つたら月が雲間に隠れて辺りは真暗になりました。星子さんは陶然として目を閉じ、格好のいゝ唇を突き出しました。
 其処にはたゞ星子さんの柔らかさだけがありました。
「ぐぐぐ」
 星子さんは長い口づけに苦しくなつたのか唇をもぎ離して喚き始めました。
「違ふわ!違ふわ!これぢやあ雪夫さんのお話にならないぢやないの!すこし書き直して頂戴!」
「仕方ないなあ」

 僕は物語を両手でまさぐつて孔を拵へると、首を突つこんで藻搔きながら物語から抜け出しました。さうしてお屋敷の玄関のたゝきに転げ落ちると、ダダダダダと階段を駆け上がつて書斎机に陣取りました。

 天井にはミラアボールが物憂げにゆつくりと回転して、薄暗いフロアに気まぐれな光をばら撒いてゐます。濡れ雑巾で窓ガラスを引つ叩いたやうなパシャーンといふ鋭い音がしたかと思ふと、せわしない光の下で六人編成のジャズバンドがジャカジャカとジャズりはじめました。南洋の蛇のやうに太くうねつてウロウロ迷走するテナーサックス。つんざくやうにシャウトしたり呻き声をあげるトラムペット。ベコベコの音で逞しくトラムペットに闘いを挑むトロムボーン。星を散らすやうなピアノ。それぞれの脚にタップシューズを履いた百足のやうなバンジョー。濡れ雑巾の正体の、腹にこたへるドラムスはときどき木魚をぽこぽこ鳴らしたり噴水のやうなシムバルを叩いたり、演奏の邪魔に余念がありません。其のジャズバンドをバックに星子さんは白い諸肌脱ぎのドレスで軽くスヰングしながら、自分の身だしなみをしかじかと確認してゐます。
「あら、斯ういふのが書けるなら最初からさうすればよかつたのに!ついでで悪いけれど、靴は燃え立つやうな真赤にして頂戴。」
「はいはい」
「ちよつと!面倒くさがらないで!」
 星子さんは赤いシューズを放るやうに黒いストレッキングの脚で床と宙を蹴り、激しくスヰングしました。ジャズバンドが古いナンバーの「ヴァンプ」を演奏しはぢめました。

〽誰でも踊る 夢中で踊る レディーをかゝえ
 調に合ふなら シミーも尚且つフォックストロット 何でもおいで
 一踊り、踊らうよ 一歌ひ、歌はうよ
 心配は、どこかへ飛ばして さあおいで
 渦を巻き、巻き返す 歓楽の一踊り、
 昼も夜も
 あゝ― 踊るうちに踊るうちに 踊るうちに踊るうちに
 あゝ― 意思疎通し意思疎通し 意思疎通し意思疎通し
 あゝ― 天下は泰平天下は泰平
 みんながハッピーみんながハッピー
 みんながハッピーさ!グッド!!
                     (「ヴァンプ」堀内敬三訳詞)

 踊りながら歌ふ星子さんは衣装が白いからか、ヒラヒラ舞ふ蝶々に見へました。――――――と、彼女は両手を広げ、首をすくめて僕に訴へました。
「それは月並みな表現よ!」
「賛辞が足りませんでしたか?」
「さういふ訳ぢやないけど…」
 星子さんは深いブルーのナイトドレスに、金色に光るヱヂプト風の小さな首飾りを揺らし、黒い長手袋の捩れを気にして直しました。
「……今度はどこへ連れてこられたのかしら?」
「此処はベルゲンランド号の一等船室の甲板ですよ。」
 塩を帯びた粘ばつこい夜風に吹かれながら僕は乱れる髪をおさへおさへ答へました。
「ベルゲンランド?」
レッドスターラインの豪華客船です。僕らは横浜から乗り込んだんですよ。 さう、貴女はこの船に乗り組んでゐるダンスバンドの歌姫として契約したんです。」
 ベルゲンランド号は青黒い海面に白く泡立つ航跡を曳きながら、二〇ノット近くの快速で海原を切り裂いて進んでゐました。陽が落ちて間もないスカイブルーの空を背景にして、幾尾もの飛び魚が船と並行して円弧を描いて飛んでゐました。星子さんは潮風にドレスの裾をはためかせながら、遠くから見たら恰も挑むやうな恰好で僕に顔を突きつけました。
「マアッぢやあ私、紐育に行けるのね!」
「紐育だけぢやないよ。亜米利加でノルマンディ号に乗り継いでシェルブールへ行くんだ。最終の目的地は巴里さ」
「!」
 星子さんはもう驚喜のあまり目を見開いて長手袋の両掌を口元で固く握り合はせたまゝ、物も云ふことを忘れてゐました。
「潮風に吹かれつぱなしなのも厭だから船に入りませう。それにサルーンでは乗組バンドの演奏で星子さんが唄う事になつてゐるんだから」
「それは大変だわ」
 サルーンでは既に煌々と明るいシャンデリヤの下に、一等船室の旅客を中心とした正装の紳士淑女貴顕が集つており、珈琲や軽いカクテルを嗜みながらダンスバンドのために設へてあるひな壇の周囲を遊弋してゐました。英語だけでなく仏蘭西語やドイツ語、日本語の入り交じる喧騒を、高級な羽毛布団の羽毛をぜんぶ空中に吐き出したやうなフワッと軽いサックスの合奏で「ブルームーン」が始まりました。すると金髪や黒髪や髪飾りのあるのや無いのや、腕を露わにしたレディとタキシードの黒が映えて、みな緩やかに抱き合つて踊りはぢめました。
「いけないッ。遅れさうッ」

ブルームーン 流れ微かに 夢を囁く 夢を囁く
 ブルームーン 独り唄へば 涙溢れくる 涙溢れくる
 淡き恋の想出 浮かぶ君の面影 今宵独り静かに 心和むこの丘
 ブルームーン 過ぎし昔の 夢よ懐し 夢よ懐し

 「失敗つたワ!うつかり日本語で唄つちやつたぢやないの!」
 星子さんは白人楽士ばかりの楽団の前で狼狽へました。すると、さゝやかな拍手と共にバンドを囲んだダンス客たちは、つい先ごろまでゐた日本に思ひを馳せてか、星子さんのヴォーカルをたいそう喜んで、声を掛けてきました。粋で愛嬌のあるバンドリーダーは星子さんを、大丈夫だからとでも云ふやうにがつちりと分厚い胸板に軽く抱きしめました。さうして、耳元に次の曲を囁くと洒脱にウィンクしてバンドに振り返りました。
 僕は貧相な形ばかりの三つ揃ひでサルーンの隅つこに佇んで、たゞその社交場に圧倒されてドキドキしながら、流れに身を任せる花を見るやうに外国人の踊りに見惚れてゐました。メリハリのくつきりと付いた星子さんのヴォーカルは外国人にも一寸したカタルシスを与へたらしく、「上海リル」や「コンチネンタル」や「ホエア・ザ・レイジイリヴァー・ゴーズ・バイ」を唄ひ終はつてダンス客からてんでに激賞された星子さんがはうはうの態でサルーンの壁伝ひに僕の側へ駆け寄つて来ました。
「サア今度は私、踊る番だわ。雪夫さんお相手して呉れないこと?」
「ボボ僕は踊るなンて」
「踊れるわ。スヰングでもボックスが基本なんだから」
 其の言葉の通り、僕は星子さんのサテンのドレスの感触と躰を掌に感じながら踊ることが出来ました。
 小気味よく汗をかいてデッキに出ると、視界に入るかぎりの空は満天の星に覆はれてゐました。水平線は見へませんが、暗い海に波頭が時おり白い照り返しをみせます。後ろから随つてきた星子さんは「まア綺麗」と呟きました。それは心に沁みて悲しくなる美しさでした。
 僕は彼女の瞳を覗きこんで懇願しました。
「やつぱり駄目かい?」
「まだ勇気が要るわね。此の儘で楽しくお付き合いしてゐればいいぢやない?」
 僕は星子さんの云ひ終はるのも待たずに形のよい唇に被さりましたが、彼女に上手くかはされました。僕はばつが悪くなりました。
「それはさうだけど心がモヤモヤするンだよ。自分がいま何処にゐるのかも判らない。」
「ぢやあ雪夫さんが其れを確かにして頂戴」
さうして僕の耳にやさしく
「ちよつとだけ轢かせて呉れるわネ」
 と甘へるやうに吹き込みました。僕は、星子さんならいゝかなと少し思つてしまひました。(続)

銀座ホールのバレンタイン

1
チュンチュンといふ雀の声に誘はれて目を覚ますと、目の前が真暗でしかも布団をかぶつた下半身にまつたりとしてゐながら切迫した尖鋭的な快感が押し寄せてゐました。手を伸ばして確かめやうとしたら、両手も縛られて既に痺れてゐます。熱く包み込まれるような感覚に襲はれて遂に我慢もならず激しい脈動とともにドクドクと射出しながら僕は恐怖しました。
「うわあゝゝゝ」
「アラ、起きましたの?」
 暗闇で声がしました。昨晩、蕨町のシャンクレールで聞いた声です。
「あ、あ、星子さん。これは」
「気持ちいゝかしら?雪夫さんが望んで仕たことなのよ?」
「え?え?僕もその、アノ星子さん…」
「もどかしいわね!目隠しと手錠は取りますわ」
 暗闇を人の動く気配がして、パッと周りが明るくなりました。いつものお屋敷の僕の部屋で、昨夜の星子の明るい顔がニコニコと飛び込んできました。
僕は下半身を剥き出しにしたまゝ、心が蕩ける思ひでした。
「それぢやあ星子さんは…」
 星子は気が狂つたやうにホーッホホホホと躰を二つに折つて笑ひ出しました。
「雪夫さん本当に酔払つてゐたのね。ヨーク御覧なさいな、パンピネオよ。朝の紅茶を持つてきたからおあがり!」
 其処でやつと剥き出しの下半身を見ると、布団だと思つてゐたのはパンピネオで、彼は太腿を抱へ込んで寝ぼけ眼で僕の陰茎を思ひ出したやうにぺちやぺちやと舐めてゐました。
「ギャアアアヽヽヽ」
 星子は床を転げて笑ひこけてゐましたが、やうやうのことで立ち上がると白い細やかなレエスがついた桃色のワンピースの裾の埃をパンパンと払つて居ずまひを正しました。
さうして僕の顔の真ん前まできれいな白い顔を寄せました。
「それで妾は此処に住まつてもいゝ訳?」
 僕は慌ただしく昨夜のことを思い返しました。
シャンクレールの前庭で訳の分からない夢を見てふたゝびダンスホールに飛び込んだ僕は、ルルが飛び出した後のお屋敷に星子を住まわすべく、熱心に彼女を口説き落としたのでした。
「妾、しやべる面白い虎が居るつて云ふからツイふらふらついて来たんだわ。雪夫さんの為ぢやなくつてよ?」
 僕はウンウンとぶるんぶるん首を縦に振りました。ルルは置き手紙とパンピネオを残したまゝお屋敷を飛び出していつて行衛も判りません。
「だだつ広いお屋敷を案内されて、此処はまるで雪夫さんの心の中みたく空虚で寂しいワと妾が云つたら、雪夫さんは僕の隷属する女主人がこのお屋敷には必要だと口説いたのよ!マゾッホだわ変態だわ。だから妾、パンピネオは貴男の中でどんな存在なの?と訊いたの」
 星子はぱつちりした瞳に笑みを浮かべた顔面を僕の顔にグッと接近させました。
「で、貴男たち、ホントウにそんな関係なの?」
パンピネオが首をもたげて、差し込む日光に目をしよぼしよぼさせながら懐かしい目で僕を眺めました。僕は粘つこいパンピネオの秋波から目を逸らしてグイッと渋い紅茶をひと息に飲み干しました。
「否!酔つ払つて何ふしたのか憶へてないけれど此奴とそんな…ありません!断じて!」
「なァんだ、さうなのか」
パンピネオはちよつと悲しさうに眉毛とヒゲをたらんと下げて、のそのそとベッドを降りると陽だまりで丸くなりました。星子はその後ろ姿を悲しげに見守つてゐましたが、
「ほら可哀想ぢやないこと?夜中にリキーだつたパンピネオはあれだけビンビンに元気だつ…さうだリキー宮川さんつて正体は虎なのね!妾の楽団で唄つてほしい位だワ」
「トラに頼んでみたらどうだい?」
「本気でさうしようかしら。」
マイセンのティーカップや砂糖壺を下げて部屋を出た星子は廊下で「アッ」と叫んでガチャガチャと持ち物を取り落とし、いまいましさうにドアをガンと開けて首を突き出しました。
「雪夫さんは冗談と本気の境目が解らないわ!いけ好かない人!」


2
 夜になると、昼間とは違つた顔をダンスホールは見せます。ことに二月の十四日ともなると普段の倍のダンス客が見込まれるといふので、いつもより雑然とした雰囲気にも活気が漲つてゐました。昼の営業でステージを終はつた対バンがガヤガヤと楽屋をはけると、赤い三角帽をかぶつたダンサーやボイがホールの掃除をしたり、飲み物の仕込みを始めます。支配人と用心棒がホールの隅で何か怪しげな相談をしてゐます。そのアンニュイなざわめきを抜けて、星子と僕はなるだけ人目につかないように虎のパンピネオを楽屋に引きずつてゆきました。それでも白いジャケツのボイが虎の面相に「わつ」と驚いたり、出入りの珈琲豆屋の娘を卒倒させたりといふ小事件はありましたが、なんとか小さな楽屋にパンピネオを詰め込んだらこちらのものです。
「そろそろ8時だよ。タキシードを置いておくからね。」
「歯ブラシと練り歯磨きも置いといてくれよ。牙がなんだか粘ついて厭なんだ」
 僕は星子にも注意を与えました。
「パンピネオがリキーになるところは見ない方がいいよ。外に出ておいで」
「アラ?どうしてかしら?妾、ちよつとやそつとのことは大丈夫よ?だつて二村定一さんと歌舞伎の子役の中村正太郎ちやんが松竹座の袖でえげつない体位のやり方してるのも見て平気だつたもの、大丈夫よ!」
「さういふ意味のグロぢやないんだけれどなぁ」
「大丈夫よ。雪夫さんとお猿のリタ嬢のエロフヰルムで二十八体位まで数へた妾よ」
 僕はいくぶん傷つきながら楽屋にパンピネオと星子を残してバーカウンターでミリオンダラーを舐めてゐました。
五分ほどしたところで楽屋の扉を引つ掻くやうな音がして、入れ替りにタキシードのりゆうとしたリキー宮川が現れると、気障な笑みを顔に貼り付けて云ひました。
「星子さんなら泡を吹いて気絶してるぜ。」


3
「星子さんは銀座ホールにも出てたんだね。」
「えゝ妾は別にシャンクレールの専属ぢやないから。東京市内のホールなら大概しつてるわ。ここはちよつとお客もバンドも荒つぽいけど、その分気持ちのいゝスヰングで唄へるのよ」
「ぢやあなにも蕨町まで行かなくてもよかつたんだ」
「ええご足労…妾は何処ででも歌ふシンガーの星子よ!デモどうして星子なのかしら。妾、気がついたときには星子だわ」
「星はスターでせう? キラキラしたスターには星が似合ふから」
「まぁ」
バーカウンターで二人並んでカクテルをちよびちよびしてゐる間にも、背後では擦れ違ひざまにぶつかつた筋者のダンス客とジャズマンがポカポカ殴り合ひをしたり、品の悪さうなダンサーがサラリーマン客のネクタイを締めあげてテケツを奪つたりなどしてゐました。星子はちよつと顔を寄せてひそこそ声で云ひました。
「知つてること?昭和8年だから今から4年前のことだわ、明大のハドラーが此処でカルモチン自殺したのよ。それ以来、馬に乗つた幽霊が出るつて噂だわ。」
 僕は震へあがりました。
「それから同じ8年に例の斎藤茂吉先生の奥様やら上流夫人とこゝのダンス教師のエロ事件があつたでせう?あれで自殺した或る奥様も夜な夜なダンス客に交じつてゐるさうよ。」
「そ、そんなこともあつたのですか」
 僕は恐怖のあまり小便を漏らしてしまひさうでした。
「それ丈ぢやないわ。銀座ホールで唄つてゐた、さう妾の先輩ね。博子さんていふ人が国華ホールのトランペットの中村憲二さんに騙されてやつぱりカルモチンで死んでね、ステヱジで唄つてゐると悲しい目つきで凝つと見つめてるの、さう、雪夫さんの今座つてゐる辺りをよ!」
「止してください!」
 僕は腰を抜かして洋パンツの中に勢ひよくシャーと小便をしてしまひました。星子はあまりの尿意に少々勃起したまゝヅボンの中でとめどなく放射する僕を凝視しながら、これはいゝものを見たといふ風に瞳を潤ませ、陶然としてゐました。
「星子さんー出番ですよ」
バンドマンが呼びにくると星子は我に返つてニッコリ笑ひ、ドイツ式のお呪いに鼻と鼻をくつつける挨拶をしました。さうしてエメラルドグリーンの目にも鮮やかなドレスを翻してステージ口に走つていきました。入れ替わりに僕は屈強な用心棒にぶら下げられて、トイレに放り込まれました。


4
フロントラインのトランペットとトロンボーンがサックス陣を従へて前奏を吹くと同時に天井のマジックボールがゆつくりと回転して、曖昧な輪郭のスポットを四方に放ち始めました。その間にエメラルドグリーンの星子がステージに出てきました。
「サア、今日はバレンタイン•デイ。恋人たちが胸を合はせて踊る宵に、ドンナいい唄を送りませう…白い小さな月がいつぱい降るやうな雪の夜にはかへつて『月光価千金』がいゝかしら? 恋人たちの夜に永遠の満月を…チェリオ!」

 月白くかがやき 青空高く
 梢の香りを我によせて
 寂しさ 悲しさ 心に消えて
 楽しくときめく胸の思い
 ああ、ああ、瞬く星は
 わが心に語る うるわしの夜よ
 青空にかがやく月の光は 
 楽しき思いを我に寄せる

 伴奏の間に星子はテナーの田沼恒雄さんとトランペットの南里文雄さんをお客に紹介し、リキー宮川にヴォーカルを替はりました。リキーはサンフランシスコ仕込みの英語で気障に歌いあげて、最後の南里さんのラッパが終はるか終はらないかにダンス客から盛大な拍手を浴びました。
 「妾、うつかりさんだつたワ。雪夫さんがあんなにしつこくお屋敷に来るやうにつて、其れはリキーみたいないゝジャズシンガーを妾に引きあはせるためだつたのね!妾すこし雪夫さんを見損なつてゐたわ、雪夫さんはすこし頭のをかしい可哀想な人だから劣情で妾をお屋敷に引き込んで気持ちの悪い悪戯や拷問を沢山されるかと思つてたでせう、なのにコンナ芸術心の豊かな人だつたなんて!妾、心からお詫びしなけりやいけないワ!さうね、雪夫さんが毎朝パンピネオにあんなことをさせてるのは妾だまつておくわ。だつて雪夫さんの変態な具合はよく分かつたんですもの、それに引き出しに沢山入つてゐた作文を読めば…」
 坂の上に見える白金台のお屋敷は雪で白く縁取られ、街頭や色電球の電飾をプリズムのやうな雪片に写してキラキラと色とりどりのしあはせを撒き散らしてゐました。タクシーに揺られながら僕はチクチクと心に刺さる言葉で虹色に滲む光を見つめ、星子の饒舌な喜びを聞いてゐて、それでも新しいお屋敷での生活に得も言はれぬ楽しさうな予感を感じてゐました。さうしてツイ勃起して星子の顔を両手で覆はせるのでした。

星子とパンピネオ

お屋敷の広い玄関に流れてゐた元日の朝の静寂(しじま)は、星子の絹を裂くやうな叫び声で鋭く破られました。
「キャアアアーーー」
 自分の部屋のベッドで微睡んでゐた僕は仰天して三寸ばかりスプリングの効いたベッドから飛び上がり、取るものも取り敢へず着るものをひつ掴み、
下半身を剥き出しにしたまゝこけつまろびつ階段をダダダダタダとなだれ降りました。さうして大臣貴顕の年賀客がぎつしりと詰まつた広い応接間に闖入し、控への間で下男下女が揃つて恭しく頂いてゐたお屠蘇を蹴つ飛ばし、犬小屋を吹き飛ばし、仏壇の間の盛花を無残に散らし、目にも留まらぬスピードで駆け抜けると星子の絶叫が発せられたと思しい玄関の間に滑り込みました。星子は玄関の床に向かつて驚愕と恐怖の表情を浮かべ、こゝを先途と悲鳴をあげ続けてゐました。
「星子さん!何うしたんですか?不肖僕が来たからにはもう大丈夫…」
 星子は僕が上半身に女物の赤い長襦袢を絡め下半身を剥き出しにしてあまつさへ勃起までしてゐるのを一瞥して、一段と高い悲鳴をあげました。さうして根来塗りの米櫃やギヤマンの水差しや李朝の花瓶や何に使ふのか分からない古い民芸風の鉄の塊などをブン投げてきました。純銀のナイフを手裏剣のやうに何本も繰り出す星子を、僕はやつとのことで押し留めました。
「待つてください、待つてください、これでは死んでしまひます。」
「アラお正月から死ぬなんて言つちや不可ないのよ」
「もとい、あの、そのお目出度くないことになつちまいます。それより星子さん何うして早朝から叫んだりなど」
「さう!それよ!パンピネオがあんなことに!」
 星子が涙目で指さした先には虎の剥製が寝そべつており、歯並びを誇示した頭がごつてりと持ち上がつてゐました。星子はハッタと僕を睨みつけ、喰つてかゝりました。
「妾とパンピネオの仲があンまりいゝから雪夫さん嫉妬してコンナこと仕たんでせう?雪夫さんならやり兼ねないわ!」
 僕は後ろに背負ってきた横断幕を出して、端つこの棒を床に突き立てるとスルスルと星子の眼前に展開してみせました。
「大☆成☆功?なによ、これ!?」
「えへへゝゝ、元旦から星子さんが吃驚するかと思つて納戸から引張り出して伸べておいたンですよ。此奴はパンピネオなんかぢや。ぐえ。」
 星子は僕の陰嚢に木彫りのスリッパで蹴りを入れ、餅つきの巨大な杵を振り下ろしました。僕は頭の周りに星を散らせたまゝ、泣きながらヨタヨタと星子に縋りつきました。
「お正月からサプライズがあるといゝ一年になるぢやありませんか」
 星子はシッシッと僕を膝下から追い払ふと、カーディガンの別珍の襟を寄せて首をすくめ、なお怯へた目つきで後退りしました。そのグレーの絹靴下に包まれた脚と華奢な背中が背後の壁に当たると、星子は眉を寄せて絶望的な顔でイヤイヤをしました。
「いゝへ。いゝへ。そんな年明けはイヤよ、断じて!さうだワ、雪夫さんは新年早々、妾を恐怖のどん底に陥れて、その剥き出しのおぞましい武器で無慈悲な獣のやうに妾をいたぶらうと云ふんだワ」
「そんなことしませんよう。毛皮がパンピネオぢやないつて安堵した星子さんが歓喜の餘りチャールストンでも踊り始めるかと期待したゞけなんですよう」
チャールストンのあと冷酷に押し倒して野獣の牙を剥くのでせう!おゝ怖ろしい!雪夫さんの考へてゐることが怖ろしい。」
 ハタと何かに目覚めた星子は棒立ちのまゝ蒼白となりました。
「さうだ、サタンですわ!雪夫さんはサタンよ!悪魔なのよ!」
 星子はとめどなく激高した挙句、懐から古びた十字架をわなわな震へる手で掴み出すと僕に向かつて突き出しました。
「えゝゝゝゝゝゝ悪霊退散ノーボータリツハラボリツシャキンメイシャキンメイタラサンダンカエンビイソワカ
 僕はすこし困つてしまひました。それで陰茎がハダカデバネズミのやうに萎へてしまつたのを見て安心したのか、星子さんは黒い覗き窓のついた溶接用の面当てをおもむろに取り出すと顔にすつぽりと被つてしまひ、くゞもつた声で宣言しました。
「もう雪夫さんを二度と今までみたいな目では見られませんわ。」

 あまりの劇的な展開に陰茎と一緒にうなだれて泣いてゐるところへ、パンピネオがのそのそとやつてきました。
「なンだい五月蝿いなあ。お正月なんだからゆつくりしなけれあ」
 パンピネオは僕の前でハタと歩みを止め、訝し気な表情でパチパチと瞬きして前方を凝視しました。視線の先には先ほど僕が吃驚大作戦に用ゐた虎の毛皮が敷いてあります。しばらく虎の毛皮を見詰めてゐたパンピネオははらはらと涙を流しました。眼から太い鼻筋に沿って、涙が染みて黒い道を作つてゐます。
「パンピネオもあれが自分の毛皮だと思ふのかい?」
「違ふやい。俺の妹のハルミがアンナ姿になつて晒し者になつてゐるのが不憫で泣けてきて泣けてきて。」
「ええつ」
 僕は、納戸から引つ張り出した毛皮がパンピネオの妹のものだとは夢にも思つてゐなかつたので吃驚しました。パンピネオはめそめそと泣いてゐた視線をギロッと僕に移すと、鼻に皺を寄せて僕を睨みました。
「可愛いハルミを毛皮にしたのはお前か?」
「ち、ち、ちちち違ひます!なな納戸から出してきたらそのその」
「お前なんだらう!」
「違ふつたら!この毛皮がハルミさんだなんて本当に知らなかったんだ」
「毛皮とか言ふな!」
「ご遺体…」
「中身はどうしたんだ?」
「知らないよ!」
「もし星子さんが皮だけになつて広げられてゐたら貴様はどう思ふ?」
「ちよつと面白いかも」
「なンですつて!?」
「ウソです!間違ひ。それあ泣き喚いて縋りつきますよう」
「さうだらう?謝れ」
「ごめんなさい」
 星子は僕の前につかつかと歩んできて、パチンと僕を平手打ちにしました。
「打たなくてもいゝぢやないか」
「だいたい雪夫さんがアンナ毛皮を持ち出すから悪いのよ!」
「ごめんなさい」
「ハルミさんに言はなきや!」
 星子が床に延べられた虎の毛皮をクルクルと巻いて持つてきたので、僕は毛皮に頬ずりしながら涙を流して謝りました。
「本当に知らなかつたんだよう、でもごめんよう。もう冷たい床には敷かないよう」
 星子も泣いてゐました。パンピネオも泣いてゐました。パンピネオは鼻をすゝりながら、ヨシッと叫びました。さうして毛皮を星子に手渡しました。
「星子はハルミの代はりに歌つていかなきやいけないよ」
「アラ、妾はモウ歌つてゐるわ。」
「妹のハルミもジャズ歌手だつたからさ。この毛皮を被つたら、そのあいだ星子はハルミになれるんだぜ」
「さういへばパンピネオも夜はリキーに戻るんでしたつけ…アラ、じやあハルミつて云ふのは宮川はるみなのね!」
「さうだよ!」
「ぢやあ此の毛皮を纏つたら妾、昼はタイガーで夜は宮川はるみになれるのね。素敵だわ!」
「それ丈ぢやあない。虎はあつちの方も素敵に強いんだぜ」
パンピネオがウヰンクしました。星子はぴよんぴよん飛び上がりました。
「なるなるなるなるなるなる!」
 パンピネオは寒さで鳥肌が立つて陰茎を縮こませてゐる僕を横目でジロジロ見ながら独り言のやうに呟きました。
「この毛皮に生命を吹き込むにはちようど雪夫くらいの少年がカラカラに枯れ果てるくらいのザーメンで黒魔術をしなけれあ不可ないんだが、そんなことは星子にはできないだらうなあ…」
「できるわ!」
 星子が瞳をキラキラさせてキッパリ宣言しました。その躊躇いのなさに僕は自分の身に危険が迫つてゐることすら忘れてゐました。さうして気がつくと僕の四肢はキリキリと革のベルトで縛りあげられ、冷たい床に転がされてゐました。
「え!?え!?」
 昂奮のあまりいさゝか蒼ざめて唇を紅くした星子は、首にしなやかに巻かれた漆黒チョーカーの下の白い喉をごくりと動かしました。静かに欲情しはじめてゐるに違いない星子を為す術もなくおずおずと眺めるうち、僕はふたゝび陰茎を勃起させてしまひました。すると獲物を狙ふ豹のやうに瞳孔を大きくした彼女は僕を蔑むやうに見下ろし、唇を曲げて不敵な笑みをみせ、屹立したものを天竺鼠でもなぶるやうにクルクルと絹の靴下に包まれた爪先で嫐りました。
「サアけふ一日でどれだけ採取できるかしらねえ。ホホホヽヽヽヽ」
僕は恐怖におのゝき、その恐怖によつてあろうことか更に昂奮してしまふのでした。(続)

1*シャンクレールの夜

1
夜も更けて、東京の郊外よりウンと郊外のダンスホールも、煌々と輝いたまゝ、踊りのお終いを迎へました。汗ばんだ躰で蕨町のボールルーム「シャンクレール」の扉を排すると、氷の粒を散らかしたやうな星空の濃紺色の夜空が広がつてゐました。振り返ると、先ほどまでの昂奮も醒めやらぬやうに眩く輝く白亜のダンスホールが屹立してゐます。ジャズバンドが追ひ出しの「蛍の光」を演つてゐるやうです。
 僕はルルと何んでもない事で喧嘩をしてお屋敷を飛び出し、浅草のビヤホールに貼つてあつたチラシに誘はれるまゝに蕨町などといふ田舎にまでタクシーのルノオを飛ばしてやつて来たのでした。ダンサーをチケットで買う勇気もなく只ぼうぜんとダンスを観てカクテルを飲んでジャズを聴いてホールがハネたあと、僕はまつたく無常感に襲はれて、シャンクレールの前の芝生にドウッと躰を投げ出して吸ひ込まれさうな空と対峙しました。首が痛くなるほど上を見上げるとシャンクレールの白亜の灯りが白く団子にぼやけ、星のひとつひとつがそれぞれ勝手な方向に不規則にぶれてゐました。星座にもならないやうな無数の大小さまざまな星々はそれぞれに白く滲んで、激しい軌跡を描きました。

「まア、雪夫さんぢやないですか。其んな処でなにしてるんですかッ」
 露を宿した芝生に寝つ転がつて甘つたるい感傷に浸つてゐたら、いきなり何処からか声をかけられたので、僕は飛び上がつて、キョロキョロしました。
「アーラ、こつちよ!こつちよ!」
振り仰ぐと、シャンクレールの白亜のデコな建物のバルコニイに人影がありました。
「生きてたのね!よかつた!これから皆んなで打ち上げだからあンたも入つてゐらつしやい。なあに構はないわ!」
 頭の中身がボーとしたまゝの僕は云はれるまゝのそのそと起き上がると、誂への服の埃を払つて、ふたゝびシャンクレールの扉を排しました。
 ボールルームは営業中の人いきれを忘れて、先ほどまでのダンス客で一杯のときとはまた異なる不思議な雰囲気で満たされてゐました。帰り仕度をしてゐるダンサー、ひと仕事終へて煙草をくゆらせてゐるダンサー、バンドマンとなにかしらこそこそ話し込んでゐるダンサー、支配人に掛けあふ男、小競り合ひする楽士。空のグラスや飲みさしの麦酒が其のままになつてゐるテエブル。すべてが閉店後のダンスホールの弛緩した裏側を露呈してゐました。
 しばらく所在なくボーと佇んでゐると、ナイトドレスの気さくさうな可愛い娘がステージの下手から飛び出してきて、すこしホールを見渡したかと思ふと僕のところに一直線に来ました。荒く息をつきながら、ルルみたやうな断髪が乱れて顔にかゝつてゐます。グンと近づいてきた娘は綺麗でした。
「あなたでせう?死にさうな顔をしてゐた人。だつて分かるわ、今でもさうですもの!妾、ホールがハネたからバルコニイで涼んでゐたんだわ、すると芝生に人が倒れてるでせう?吃驚して声をかけたのよ。生きてゝよかつたわ!あら、妾ばかり喋りすぎた」
「はじめまして」
「あら!御免なさい!妾つたら。いつもそゝつかしくてお行儀が悪いつて…さうだわ、自己紹介しなきやね。妾はこゝのジャズバンドで歌つてゐる星子といふのよ。…貴方は雪夫さんネ」
「エッどうして僕の名前を」
 僕は驚いて弾力の効いたダンスホールの床に尻餅をつきました。
「あはゝゝ、雪夫さんの作文は全部読んでてよ?ルル子さんと喧嘩別れしたんですつて?」
「其れはまだ書いてないのだけど…どうしてご存知なの?」
「いゝぢやない。お話の中くらいは何んでもありじやないと面白くないことよ。」
 星子は衣装の透けたナイトドレスからスクッと伸びる白い腕で僕を引き揚げてくれました。さうして愛嬌のある瞳に笑みをこぼしました。
「妾は雪夫さんの知つてゐることを吸収したいだけだわ。」
僕はベルリンでの忌はしい記憶にキッと身を固くしました。
「君もナチスなのか」
「いゝへ、違ふわ。でも今は内緒よ」
「僕の廻りには内緒な人が多すぎるんだよ。奥様もルルもさういふ訳の分からないことを…」
 僕は頭を抱へてしまひました。
「ホラ、さうして頭を抱へこむ。それだからダメなのよ、陽気でゐなけれあ。さあ、打ち上げが始まるから唄いませう、踊りませう!」
 星子が楽器の手入れをしてゐる楽士や支配人の間を駆けまわつて何か話をしてゐたかと思ふと、止まつてゐたミラーボールがふたゝび廻りはじめ、サックスの柔らかいサウンドがオープニングを告げてゐました。いつもならダンスホールのハネ(終了時)によく演奏されるベニー・グッドマン楽団の「さやうなら “Good Bye”」です。ステージの裾のカーテンの蔭でドレスをたくし上げ、肌を透かしたストッキングの靴下止めをキュッキュと直しながら星子は云ひました。
「いゝこと?ダンス客にはお名残り惜しいグッド・バイもこゝでは楽しい夜の始まりなのよ、覚へておくといゝわ」
 お客の居ないボールルーム。それはなんといふ贅沢な空間でせう。
星子はジョーゼット地のやはらかさうな白いナイトドレスの裾を翻してステージに駆け上がると、ぱっとヒマワリのやうな笑顔でお客のゐないホールに話しかけました。
「妾、唄ふわ。唄ふわ。朝の唄を。夕べの唄を。静かに暮れてゆく夕焼け空。あゝあの夕空を見てゐると、なんだか心がときめくわ。ねぇ貴方、今宵あたしどんな夢をみると思つて?」
 ジャズバンドが星子の台詞に合はせて静かに「青空」を奏ではじめました。
 僕は頭を撃たれたやうにフラフラとまばゆいステージに歩み寄りました。
星子はセンチな台詞とはウラハラに、砕けたジャジーな一九三六年型の”My Blue Heaven”を唄ひました。

 二人で仰ぎ見る 茜の夕空
 辿るも嬉しや 我が家の細道
 今宵また見る 楽しい夢も
 愛のひかりに 紅く燃えて
 あしたも青空 嬉し青空 

「台詞はお春坊…市川春代の吹きこんだそのまゝよ。センチでせう? えゝ笑つて頂戴。デモ都会の綺麗な満月の下で夢を見たつて罪ぢやないぢやない?妾、斯ふしてステージで踊りながら歌うのが一番の夢なのよ!」
「笑つちやいないよ。僕だつて夢をうつゝに生きられたらそれでいゝ」
「もう戻れないわよ」
「もういゝよ」
「あら!」
 星子はスヰートなジャズバンドの奏楽のたゞなかで踊りを止して、怖い顔で僕の肩をむんずと掴んでかしらを烈しく振りました。
「雪夫さんやけつぱちになつてゐるわ!そんな雪夫さんは厭よ。踊つて愉快にしなきや!」
星子はむきだしの腕で僕を突き放すと、よろけた僕の手を掴んで、思ひきり派手に踊り始めました。僕はクルクル廻りながら
「判つたよ!判つたよ!」
と叫びました。ところが二人の廻転する力が強すぎたのでせうか、止まらうと思つてもクルクルと止まらないまゝ、僕と星子はステージの袖の筒になつたカアテンに勢ひよく飛び込んで、折り重なつて倒れてしまひました。
「おゝ痛い。重いから穂――」
 手を床に突つ張つて半身を起こした僕の口を星子の掌が塞ぎました。彼女の大きな瞳がすぐ目の前にありました。その悪戯つぽい目がふっと笑みを消して瞳孔を広げ、ジッと僕を見詰めました。さうしてゆつくり瞼を閉じると、艷やかな形のよい唇を尖らせて僕の顔面に接近しました。突如として僕の胸に火が着いてボッと燃え盛ります。僕は唇を求めて躰をバネのやうに弾ませ、野獣となつて穂士子を両手でかき抱きました。が、腕の中に残つたのは何もない空間でした。穂士子はスルッと猫のやうに身体をかはして薄暗いカーテンから抜け出たのです。穂士子を逃して辺りをキョロキョロした僕に、ユラリとカーテンを揺らして顔だけ覗かせた彼女はニコニコしながら云ひました。
「アラ雪夫さん、何うなさつて?妾が欲しいならもつと生きることね。」
「僕は生きてゐるよ。」
「駄目よ。死んでるわ。だつて貴郎は過ぎ去つた者を見詰めてゐる。貴郎はたゞドキドキしたいだけなのよ!」
「貴女に凝視められたらドキドキもするでせう!」
「まあお上手。貴郎は相当に仕込み甲斐がありさうね。ホホヽヽヽ」
 区切られた丸く狭い空間を遮つてゐたカアテンがジャッと引かれると、其処にはピッチリした黒の肉襦袢に身を包んだ官能的な星子が立つてゐました。
「あれえ。いつの間に。」
悪魔的なキラキラした紋章を浮かせた肉襦袢の星子は僕の首根つこを掴むと、ステエジまで引つ張つてゆき、濡れ雑巾を放るやうに板の間にべちゃつと叩きつけました。「ギャッ」と僕が叫ぶのを心憎さうにニヤーと笑つて見届けると、彼女は鋭くジャズバンドに向かつて叫びました。
「楽士はじめ!」
八人編成のコンボがグルグルとキャブ・キャロウエイの「ザ・マン・フロム・ハレム」をプレイし始めました。星子はモヤシのやうに萎えきつた僕を格好のいい脚で蹴り転がしました。僕は其の手荒な扱ひに思はず勃起してしまひました。すると、その躰の変化を星子が目ざとく見付け、素足の踵でグリグリと陰茎を踏みつけにしました。
「雪夫さんはコンナ虐待で昂奮していやらしい気持ちになつてゐるわ!それが過去の恋愛モドキの遺物でなくて、なんでせう!」             
「い、いへ!こ、これは星子さんの素足の踵でグリグリされて反応してゐるだけです。他の女なんて一ミリも考へてやゐないんですよう」
星子はやゝ大きくなつた陰茎を踏みつける足許をすこし緩めて、満更でもない顔つきをしました。
「あら。じやあ妾で勃起してゐるのね。間違ひはないわね?」
「ハイ」
星子は顔面をほんのりと紅くして、柔らかい足でくねくねと不安定に逃げ惑う陰茎を踏みしだきながら、軟化した態度で訊きました。
「あの、其れは雪夫さんが妾を好きだと云ふことでいゝのかしら?」
「初めて遇つたときから」
「デモ雪夫さんの過去が過去でせう?面倒くさい女がゐるやうな殿方は…」
「貴女みたやうなマトモな人がゐたでせうか? 知つてゐるんでせう?」
「…えゝ」
星子が指先に力を入れたので陰茎が悲鳴をあげました。
「星子さんのやうなステキで可愛い女性はゐやしませんよ!」  
彼女の瞳がキラキラと輝いて、僕を凝視めました。             
「ぢゃあ妾、雪夫さんの目ん玉を舐めて差し上げませう。」
「ええつ。何んだか怖いなあ」
「文句を言はない」
星子は僕の頭を両手でしつかり抱へこむと、真面目なやうな冗談のやうな愛嬌の溢れる眼差しをしました。さうしてゆつくり瞼を閉じると、唇を尖らせて僕の顔面に接近しました。視界と嗅覚が星子で遮られます。さうして、蠱惑的に濡れた舌べろがワイドに迫つてきました。僕は思はず目をギュッと強く閉じてしまひました。ジャズは最高潮に高まり、僕の動悸も破裂しさうに高まりました。



2
 こはごは目を開けると、僕は一等車の窓際の席で水のやうな窓硝子に頬ぺたをくつ着けてゐました。硝子を通じて静かな列車の振動が感じられます。環境の劇変に眩暈を覚へながらのろのろと頭を持ち上げると、昨晩とは打つて変はつてクリーム色にオレンジ色のストライプが入つた爽やかなサテンのドレスに身を包んだ星子がコロコロと笑ひました。
「雪夫さん、何うしたのかしら?」
僕は夢を見てゐたのかと思ひました。
「夢ぢゃないわ。雪夫さんと妾はいま何処にゐるか分かるかしら」
「さつぱり分かりません。処で一体どんな魔法を使つて…」
「妾たちこれからバカンスにいくのよ。行楽気分のトッテモいい天気でせう。そつちの方がよつぽど夢の中のやうでなくて?」
星子は遮るやうにはしゃいで云ひました。胸元の小粒な真珠とアメヂストをあしらつた大ぶりな首飾が揺れると朝日を受けて輝き、一等車両の壁に何条もの光を投げかけました。クルッと外を見ると、静かに景色が疾駆する硝子窓の外には青空が広がつてゐました。さうして、空の境目も不分明にキラキラと細かい小波を無数に浮かべる海が広がつてゐました。
「いま汽車が走つてゐるのはどの辺りなんですか?」
「特急富士よ。だから…」
「西下してるんですね。大阪でせうか?それとも京都…」
「もう過ぎたわね。ああ、モウ下関に着くわ。」
するすると音もなく下関のホームに着いた特急富士は、黒煙をあげて再びのつそりと動きはじめ、僕たちを残して、加速を加えながら視界から去つてゆきました。ホームには行李を背負つた行商のお婆さんや家出人らしい断髪の少女、臨月の妊婦、朝鮮半島から来たと思しい青年に投資の冊子を見せながら話しかけてゐるいかゞはしい男、詰襟の学生、目つきの鋭い刑事らしい男、煙ですゝけた制服の赤帽などが雑多にたむろしてゐました。
「こつちよ」
カツカツとエナメルのヒール靴で歩く星子のあとに付いてゆくと、漁港に出ました。何本もの帆桁やら垂れ下がるロープやらの上空を鷗がひらひら舞つてゐます。海に向かつて彼女が二本の指を口に咥へて高くピーと口笛を鳴らすと、暫くは何も起こらないのでナアンだと思つてゐたところへ、何処からか異様な物音が聞こへきました。
「こつちだワ」
カッカッと小走りに駈ける星子に手を引つ張られてゆくと、港でも人気のない端つこの海原に、鯨のやうな黒い物体が真白な潮に胴体を洗はれて海面から浮き上がるところでした。
「これは、せ、潜水艦」
「さうよ。伊号第六十八潜水艦。おつつけ艀で水兵さんが迎へに来るわ」
艀からこはごは潜水艦によじ登り、狭い船内に飛び込むと、早速ネイビーに蹴飛ばされました。
「貴様ッ密航する積りだらう」
蹴つ飛ばされた拍子に鋼鉄のドアーにゴン、などとぶつかつたので頭をさすりさすり起き上がつたところへ、タラップを伝つて恰好のいゝ脚線をストッキングに包んだ星子が降りてきました。僕を蹴飛ばした少佐の潜水艦長がキッと居ずまいを正し、カッと踵を揃えて穂士子に敬礼しました。
「アラ栢原艦長。お元気だつたかしら?」
「ハッ星子様に於かれましては、お元気さうで何よりであります!」
「殿下なら栢原に宜しゆうと仰つてゐたことよ」
「どちらの殿下でありましたでせうか」
「高松のよ。」
艦長は感極まつて白いネイビーの略礼服の袖を顔に押し当て、鉄板の床に崩れおち泣き出してしまひました。鉄板の床に涙の地図が広がつてゆきました。
「いゝからも少し居心地のいゝところに案内して頂戴。妾の大事なお客の雪夫さんが痛い目に遭はされたんだし」
星子が苦情を云ふと、ネイビーの水兵が寄つてたかつて星子と僕をチヤホヤして潜水艦の奥の間にある艦長室に案内して呉れました。艦長室とはいつても狭苦しい空間のソファに穂士子と詰め詰めに座ると、すこし暑苦しいやうです。僕は上気してしまひました。
「あの、此処は少し暑いやうですね。」
「えゝタービン機関が足の下に通つてゐるんだもの。暑いのは当たり前だワ」
星子は胸元の開いたサテンのドレスをわざと大きくパタパタと拡げてみせて、甘い女の匂ひを室内に充満させました。理性を崩すまいとしても、どうしても胸元の或る楽しい予感を伴つたなめらかな隆起をもつ白い肌が鮮やかに目に入ります。
「もうちよつと離れて貰へないでせうか」
「アラどうして?妾のことがそんなに嫌ひなのかしら?妾がつかりしちまふわ!」
「いゝへ其んな!星子さんのことをそんな。此処があんまり暑いから」
「だつたらいつそ、もつと熱くなりませうよ!」
星子は隣りから抱きついてきて、僕の上半身をオーガンジィの透けた短い袖から伸びるすつきりした腕で雁字搦めに抱きしめてしまひました。ボクの腕に粘土を潰したやうな感触が暖かく感じられました。彼女は斜め下から僕に蠱惑的な潤んだ瞳を寄せるのでした。
「ねぇ」
僕は躰の上に乗つた星子の柔らかい太腿の下で勃起してしまひました。穂士子はすこし悪戯つぽい眼をして、僕の瞳を覗きこみました。
「妾たち、まだキスしてないわ」
僕は蕩ける心地で星子を抱きしめ、弾力のある胸の抵抗を感じながら陶然と目を閉じました。彼女は果たし状を開いたやうに野性の気を全身に漲らせて、紅の唇を接近させます。
唇を尖らせて其の紅い唇と重なるか否か、彼女の熱い鼻息が頬に感じられたそのとき、ゴンゴンとドアーがノックされました。星子はパッと僕の膝から飛び退くと、三寸ばかりも僕から離れて身を正しました。艦長が断はりもなく闖入しました。艦長は室内の熱気に圧されたのか半巾を取り出して汗を拭いながら、故意らしく暑いねぇ暑いねぇなどと笑つて云ひました。
「星子様、着きましたよ」

暗いタラップを上がつて潜水艦の天辺の昇降口から半身を乗り出すと、新鮮な空気が肺いつぱいに流れ込んできました。生き返るやうな思ひで深呼吸をしてゐるとお尻にコツンと星子の頭が当たつたので僕はあはてゝ外側のタラップから、鯨の背のやうな甲板に降り立ちました。艦長は僕の天幕を張つたヅボンを見て状況は把握してゐた筈ですが其のことには何も触れずに、ポケットの中でピストルを握つた手をわなわなさせながら、紳士的にニコニコと笑みを湛へて星子と僕を見送つてくれました。星子が握手しながら「また会ひませうね、」と云ふと、艦長は
「えゝ靖国でお目にかゝりませう」
と凛々しく答へました。

 一面の黒いほど青い海に抜けるやうな空が広がり、かき氷のやうな入道雲が聳へてゐました。さうして伊号潜水艦の浮いてゐるスグそばには島の岬がありました。すでに潜水艦の傍には艀が迎へに来てゐました。僕は星子に続いて甲板に立つた栢原艦長の手助けで艀に身を移しました。艦長は艀から離れるとき、僕にだけ聞こへる声でこつそりと「いゝ気になるなよ」と云ひました。僕はすこし心が痛むのを覚へましたが、そのあと星子も艀に乗り移つてきて無邪気に「小豆島よ!」と叫んだのに調子を合はせて燥いでみせました。艀はドンドン潜水艦を離れました。
「あんな厭な船、沈めばいゝのに。」
「そんなこと云ふもんじやないわよ」
「厭なこと云はれたから」
「妾たちに嫉妬してるのよ」
 もう一度振り返ると、伊号潜水艦はほんとうに海面から沈んで影も形もありませんでした。

 島の小さな船着場に着く頃には僕は厭な気持ちも晴れ晴れとしてしまひました。揺れる小舟から桟橋に飛び移るや、僕は星子の手を引張つて砂浜に走りました。
 長い長い海岸線に沿つて走ると、足許を白い波の子が攻めては退きました。星子はこけつまろびつしながら、遂に砂浜にぺたんこに座り込んでしまいました。
「雪夫さんはあんまり乱暴だワ、一寸待つて呉れてもいゝぢやない!」
僕は星子の手を掴んで一心に走つてゐたはずが、彼女を遥か後ろに置いてきぼりにしてゐたことに我ながら驚きました。さらさらした明るい砂に、星子がべつたりと腰を据へてゐます。扇情的なオレンヂ色の水着に僕はドギマギしてしまひました。
「あの、いつの間に水着に…」
「いゝぢやない、こゝは雪夫さんの空想世界よ。何があつてもおかしくはないのよ。」
「じやあ此処にゐる星子さんも僕の妄想の産物なのかい?」
「サア。それは貴郎が確かにしてよ」
1936年型の背ぐりの深い水着の星子のすらりとした腕を引つ張り上げると、僕は彼女を抱き上げて、砂浜に深い足跡を残しながら絶好の海辺を探しました。
肉感を両腕のなかに堪能しながら漸く抜群な景色が眺められる岬の突端に着いたときには、陽はもう落ちかける頃でした。
「遅いわよ」
「御免なさい。コンナ小さな島なのに、絶景を見つけるのにずいぶん時間が。」
「故意とでせう?」
キラキラした小波を無数に浮かべる海に面してふたりで座り込むと、海面に火柱を立てたやうな蜜柑色の太陽がゆつくりと傾いてゐました。星子が傍らのポーダブルの蓄音機をグルグル回して盤面に針を落としました。
「いつの間にそんなものを!」
「野暮なことは云はないで。雪夫さんの妄想の中でも妾は妾だわ。」
蓄音機から流れてきたのはガイ・ロンバード楽団が演奏するスロースヰングの「夕陽に赤い帆」でした。そのしみじみする旋律のつゞく間に、水平線に陽が沈み込んでゆくのを星子は涙をこぼして見入つてゐました。
「この夕映へに船が帰つてくるとするでせう。するとその船には妾の恋人が乗つてゐるのよ」
「僕は嫉妬するね」
「ものゝ例へよ。美しい景色でせう?」
「平和だね」
じつさい美しい光景でした。僕は、この瞬間を共有できたことに感情を突き上げられ、思はず彼女を抱き締めました。夕陽のオレンジ色を映す潤んだ瞳が僕を捉へました。僕は大胆に唇を奪うべく、吸ひ寄せられるやうに星子のうつとりした顔に接近しました。まどろむやうに緩んだ頬は上気し、笑みを湛へてゐた眼はとろんと情に濡れて僕を見据へてゐました。涼やかなサテンのドレスの袖から僕の首に巻き付いた腕は、潮風を帯びたのか昂奮のゆへかしつとりと熱く火照つてゐました。唇を揃へて睫毛を重ねた彼女に、僕も目を閉じました。お互ひの心音とさゞ波だけが聞こへて、あと一瞬のちにはふたりの唇が交錯しあうやうに思はれました。



3
僕はフト気がつくと露を帯びた芝生に躰を横たへてゐました。頭上には満天の星がちかちかと輝いてゐます。さうしてかま首を持ち上げると、シャンクレールがありました。
その二階のバルコニイには黒い人影がありました。
「まア、誰なの?其んな処でなにしてるんですかッ」
夜目に慣れた目には、その人がダンスホールの享楽の匂いを身に纏つたまゝ心配と好奇心をいつぱいにしてゐるのが見て取れました。星子の声だと僕は直感しました。僕は、新しい未来を確信して手を振りながらシャンクレールの玄関に向かひました。

ルルの伯林デビュー


ヒトラー総統の計らいでホテル・エデンの最上階を住処にしてゐたルルと僕とパンピネオは、流石に一ヶ月もすると灰色と赤色と黒色の伯林の街並みに飽きてきました。ダンスにもレヴュー観劇にも飽きたルルは或る日、カーデーヴェー百貨店の大きな包みをパンピネオの背中に載せて憤然として帰つてきたものです。
「聴いて頂戴!三井や三菱の奥様たちが集まつてゐる日本倶楽部の連中は妾を見ると、あれあの浅草藝人くずれがゲッベルスやヒトラアのお蔭で背伸びなんぞしてと陰口をきくのよ!」
 僕は別珍のソファで涼しいグリーンの色を液体にうつしたモヒートを呷りながら
「それあ奥様方の僻みでせう!ルルも伯林中に知られるやうな歌手になつたらいゝでせう、さうすれば誰も何も云ひませんよ」
 と言ひました。ルルはボブの軽やかな髪をはらりと跳ねあげて振り向くと、初めて気がついたことのやうに目を見開きました。
「さうねヱ!妾、この大都会でデビューするんだわ!あの高慢ちきな奥様達にぐうの音も出させなくするんだわ!それが妾の使命よ!」
「使命だなんて大げさな」
 きついカクテルの加減でやゝ大胆になつた僕がせゝら笑ふと、ルルが怒つて百貨店の袋からハイヒールや堅い独逸パンや婦人雑誌やコムパクトや消火瓶や西洋こけしや化粧ポーチや衛生サックや婦人拳銃などを掴み出して僕にぶつけはじめました。さうして最後に溶接用の防護面を引つ張り出すと顔に被せて、黒い遮光板越しに僕を睨みながらくゞもつた声で叫びました。
「雪夫さんはどうせ奥様と付き合つてゐるから、そんな人を小馬鹿にしてゐるのでせう!けがらわしい!!きいいい」
「僕はとつくに奥様とは別れてゐますよつ」
「いゝへ!目が笑つてゐるわ!ルルがデビューしてもドウセ成功なんざしないと思つてゐるんでせう!あの奥様とせゝら笑ふつもりなんでせう!悔しい!!」
「僕はそんなにもてやしませんよ!奥様は今ごろ旦那さんと奉天で新しい生活を」
 ルルは立ち竦み、防護面の中で慄然と震へました。
「マア、どうして其んなことまで!おそろしい人。」
「今朝のフランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥングの消息欄に載つて…イテッ」
 僕は小一時間ルルにとつちめられました。



 II
「どうして俺がこんな役をしなきやいけないんだヨ」
 パンピネオがぶつくさと愚痴りながら僕を乗せて夜のクールフュアステンダム通りをのそのそ歩きました。
「仕方ないだらう。ルルを怒らせちまつたんだから、ルル・デビューの会場を見つけなきやホテルに帰れないんだよ。」
「だいたい雪夫のくせに会場を決めたりルルのマネーヂメントができるのか?チビで不細工なくせに」
「チビで不細工ならゲッベルス博士だつてさうだらうが」
 ショー・ウィンドウの光る夜道をそんなことを云つて歩いてゐたら、いきなりゲシュタポのバイクが前から猛進してきて、僕とパンピネオの前に止まりました。さうしてぶんぶん唸つてゐるBMWサイドカーからチビなゲッベルス博士がスクッと立つてナチス式の敬礼をしました。
「諸君らが私のことをチビで不細工だと放言したといふ報告が来たのだが」
 僕はナチスの情報網の完璧さに舌を巻きました。
 ゲッベルスは高価さうな黒檀のステッキで石畳をカツカツと突きながら、お得意の演説を始めました。
「話は全部聞いた。ルルのデビューならば吾がナチスドイツ帝国の威信にかけて成功させやう。差し当たり三千人を収容するウーファ・パラストで手を打つてはどうかね?ギャランティーは五万ライヒスマルク(†)。私がマスコミュニケーションの皆様に指令して、伯林だけで千五百紙の新聞に絶賛の批評を書かせやう。どうだね文句あるかね?総統も私もルルの魅力の虜なのだよ。殊にあの怒つた顔…」
 ゲッベルス博士はしばし陶然とした面持ちになつてダラシなく長靴のつま先でマンホールの凹みをいじいじと突付いてゐましたが、ハッと我に帰るとふたゝびキビキビした動作で僕たちをステッキで指差し、
「兎に角さういふことである。ルル嬢に即刻伝へるがよい」
 と云ひ残すと、ナチス式敬礼とBMWの朦々とした排気ガスを残して消へ去りました。僕とパンピネオは街灯の下で躍り上がって喜びました。
「きつとルルも大喜びだよ!」



 III
 黒い蠱惑的なナイトドレスに絹の薄いカーディガンを羽織ってくつろいでゐたルルは、バカラに注いだクリュッグシャンパンを勢いよく僕とパンピネオにぶちまけました。
「あなた達、馬鹿ぢやないかしら?妾がそんな政府御用達の批評を貰つて喜ぶと思つて?伯林のファンの前で歌ふことができれば場末だらうが何処だらうが歌ふし、批評なんかどうでもいいのよ!」
「俺は最初からさう云つたんだよ。雪夫の馬鹿がゲッベルスの云ふことを真に受けて」
「だいたい妾はナチスとごきぶりが大嫌いなのよ!だつて似てゐるぢやない?」
「さうかしら?」
「黒光りしてゐるところとか堅さうなところとか滑らかで…アラいやだわ雪夫さんたら」
「僕なにも云つてません。でも云はれてみると突撃隊に似てゐるなあ。」
僕は床を這つてゐたごきぶりをアイスピックで突き刺して、六本の脚が別々に藻掻いてゐる奴をルルの目の前に突き出しました。
「キャアヽヽヽヽヽヽヽ」
 婦人用のコルトで狙ひもつかず無闇にパンパン撃たれながら僕とパンピネオはホテルを飛び出しました。
「まつたく雪夫は碌なことをしないな」
「あんな虫がゐるんだつたらパンピネオが見つけ次第食つちまへばよかつたのに!」
「あんなものを食つてゐることが知れたらルルがもうキスして呉れないだらうが」
「食べてはゐるんだね?」
「……」
 人通りもまばらな深夜のクールフュアステンダム通りをパンピネオとかつかつ歩いてゐたら、向ふから思ひも寄らずベーちゃん先生こと二村定一さんが歩いてきました。
「えゝゝゝゝ!」
 思はず叫び声をあげると、べーちやん先生も僕たちの前ではたと立ち止まりました。白粉をはたいて真赤に裂けたやうな唇とピエロのやうな眉を黒々描いた容貌は間違いなく二村定一さんです。
「あの、いつたい何時こちらに来たんですか?」
 べーちやんは早口の独逸語で何か云ひました。
「僕ですよ、べーちやん先生に何度も掘られた雪夫ですよ!」
 さう云つてくるりと振り向き、お尻を向けると、べーちやん先生は矢張り独逸語でなにか喚きながら両手を派手に開いて喜び、僕のお尻に頬ずりしました。
「そんな何ヶ月も経つてゐないのに独逸語かぶれになつたんですか?」
 パンピネオが僕の袖を口で引つ張りました。
「これはどうも二村さんぢやなさゝうだぜ。」
「左様。私はフタムラさんぢやありません。しかし少年のお尻は好きです」
「あなたはどなた?」
「この先にあるキット・カット・クラブといふカバレットの司会をしてゐるんですよ」
「カバレットですつて?」
 僕はパンピネオと顔を見合わせました。
 カバレット「キット・カット・クラブ」は人通りのないクーダムの通りとは対照的に、店内に一歩入るとタバコの煙と五色のカクテルとジャズと眩いライトとミラーボールで、宴たけなわでした。さつきのべーちやん紛いが小さなステージの袖から飛び出して、凶暴なまでのユーモアを湛へてジャズシンガーの紹介をしてゐました。ディトリッヒ張りの歌手が歌ひだしたのを尻目に、僕は舞台裏に飛び込んで伯林のべーちやんを捕まへると、懇々とルルを売り込みました。
「さうかい、まアいゝだらう、出演して貰はう。処で斯ういふ好意的な取り決めにはそれなりの見返りも…」
「俺は一足先にルルに知らせに行くぜ。」
 パンピネオがウィンクをしてそゝくさと去りました。僕はその晩、ホテルに返して貰へませんでした。



 IV
 デビューの日になると、ルルはもうそはそはして居てもたつてもゐられない様子でした。
「妾、チャンとできるかしら?お客様は来てゐるんでせうね?伯林まで来て恥はかきたくないわ!」
「この間はどんな場末でも評判が悪くてもいゝと云つたぢやないか」
「雪夫さんは妾を陥れやうとしてるの?デビュー前なんだから高揚させて頂戴!」
「ルル・デビューが終つたら巨きな豹の縫いぐるみでもプレゼントしませう。」
「マア!!」
 ルルは顔色をパッと輝かせ、少女のやうににこにこ笑ひました。パンピネオが拗ねて布団を噛み破り、部屋中をふはふはと羽毛だらけにしました。白い羽毛が夢のやうに舞ふなかでルルはクルクルと回つてみせて、それから練習に余念がありませんでした。
 ミラーボールが弾き返すまばゆい光と迷走する三色の照明を浴びて、例の伯林のべーちやんがギラギラ光る派手な衣装で手を大きくひろげてステージに飛び出しました。彼は思ひ入れたつぷりに顔を作りながら、俗悪と優雅さの入り混じつた魔法のやうな司会をしました。
「伯林のごろつき連中の皆さん、今夜の歌姫はいつものビッチな歌うたひ共とは訳が違ふよ!わざわざ今夜のためにはるばる日本からやつて来た黒髪のルルだ!唄もうたへばピヤノも弾くしトークもやるといふからサア大変だよ!ナチスの殿堂ウーファ・パラストをかなぐり捨ててキット・カット・クラブを選んだといふ可愛いお馬鹿さんに拍手!」
 僕はステージに駆け出すルルに心からのキスを送りました。
 白い小ざつぱりとしたワンピースに控へ目の装身具を着けただけのルルは百人ほどで一杯になるキット・カット・クラブ満載のお客を一瞥して一瞬たじろいだかに見へましたが、伯林でもきはめつけの不良が集まる娯楽場を毒舌で沸かせました。金平糖のやうな粒の立つたタッチでピアノを弾いて自作曲を披露し、軽快なジャズバンドの伴奏に乗つて伯林でも流行つた唄をいくつも歌ひました。ひとつのナンバーが終はる度に怒涛のやうな拍手が天井のシャンデリアを揺るがしました。
「けふはこの唄で最後にするわ!妾は日本に帰るけど、いつでもルルは此処にゐるの。さうして誰もがルルなのよ!」

思い出は遠くあの楽しいときへ
心は愛の歌に満たされながら
歌いあかした

その歌はいま聞こえずとも
メロディーだけはまだ耳に残る
あのときのあのメロディー歌うと
夏はゆくよ いざ楽しんでいま

月の下にて 二人のうたう歌は
短夜に はや聴こえずとも
メロディーだけはまだ耳に残る
(歌の終つた時 "Song of the End")

 キット・カット・クラブのお客はみなシンとして最後の唄を聴き、ワルツ・テンポの伴奏が消えるより前にワッと割れるやうな拍手と賛辞をステージのルルに注ぎ込みました。ホールの遠い柱の蔭でヒトラー総統やゲッベルス博士も感涙を止めやうともせず手を叩いてゐました。伯林のべーちゃんが飛び出して、興奮のあまりスタンドマイクを引き回して叫びました。
「諸君!ルルは今晩、伝説を生みましたぞ。」
 ルルはステージから袖に駆けもどると、感激のあまりふはりとワンピースの裾を広げて僕に飛びつき、両手を握りしめました。
「大成功だわ!今夜は一杯ご馳走して下さらないこと?」
 瞳を大きく潤ませながらさう云つたルルは、いつものルルでは無いやうに思はれました。さうして、この夜の終はらない成功がルルをよりルルにしたのでした。


†) 50000RMは日本円で4〜5万円。現在の約二億円に相当。


ヒトラー総統の計らいでホテル・エデンの最上階を住処にしてゐたルルと僕とパンピネオは、流石に一ヶ月もすると灰色と赤色と黒色の伯林の街並みに飽きてきました。ダンスにもレヴュー観劇にも飽きたルルは或る日、カーデーヴェー百貨店の大きな包みをパンピネオの背中に載せて憤然として帰つてきたものです。
「聴いて頂戴!三井や三菱の奥様たちが集まつてゐる日本倶楽部の連中は妾を見ると、あれあの浅草藝人くずれがゲッベルスやヒトラアのお蔭で背伸びなんぞしてと陰口をきくのよ!」
 僕は別珍のソファで涼しいグリーンの色を液体にうつしたモヒートを呷りながら
「それあ奥様方の僻みでせう!ルルも伯林中に知られるやうな歌手になつたらいゝでせう、さうすれば誰も何も云ひませんよ」
 と言ひました。ルルはボブの軽やかな髪をはらりと跳ねあげて振り向くと、初めて気がついたことのやうに目を見開きました。
「さうねヱ!妾、この大都会でデビューするんだわ!あの高慢ちきな奥様達にぐうの音も出させなくするんだわ!それが妾の使命よ!」
「使命だなんて大げさな」
 きついカクテルの加減でやゝ大胆になつた僕がせゝら笑ふと、ルルが怒つて百貨店の袋からハイヒールや堅い独逸パンや婦人雑誌やコムパクトや消火瓶や西洋こけしや化粧ポーチや衛生サックや婦人拳銃などを掴み出して僕にぶつけはじめました。さうして最後に溶接用の防護面を引つ張り出すと顔に被せて、黒い遮光板越しに僕を睨みながらくゞもつた声で叫びました。
「雪夫さんはどうせ奥様と付き合つてゐるから、そんな人を小馬鹿にしてゐるのでせう!けがらわしい!!きいいい」
「僕はとつくに奥様とは別れてゐますよつ」
「いゝへ!目が笑つてゐるわ!ルルがデビューしてもドウセ成功なんざしないと思つてゐるんでせう!あの奥様とせゝら笑ふつもりなんでせう!悔しい!!」
「僕はそんなにもてやしませんよ!奥様は今ごろ旦那さんと奉天で新しい生活を」
 ルルは立ち竦み、防護面の中で慄然と震へました。
「マア、どうして其んなことまで!おそろしい人。」
「今朝のフランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥングの消息欄に載つて…イテッ」
 僕は小一時間ルルにとつちめられました。


 II
「どうして俺がこんな役をしなきやいけないんだヨ」
 パンピネオがぶつくさと愚痴りながら僕を乗せて夜のクールフュアステンダム通りをのそのそ歩きました。
「仕方ないだらう。ルルを怒らせちまつたんだから、ルル・デビューの会場を見つけなきやホテルに帰れないんだよ。」
「だいたい雪夫のくせに会場を決めたりルルのマネーヂメントができるのか?チビで不細工なくせに」
「チビで不細工ならゲッベルス博士だつてさうだらうが」
 ショー・ウィンドウの光る夜道をそんなことを云つて歩いてゐたら、いきなりゲシュタポのバイクが前から猛進してきて、僕とパンピネオの前に止まりました。さうしてぶんぶん唸つてゐるBMWサイドカーからチビなゲッベルス博士がスクッと立つてナチス式の敬礼をしました。
「諸君らが私のことをチビで不細工だと放言したといふ報告が来たのだが」
 僕はナチスの情報網の完璧さに舌を巻きました。
 ゲッベルスは高価さうな黒檀のステッキで石畳をカツカツと突きながら、お得意の演説を始めました。
「話は全部聞いた。ルルのデビューならば吾がナチスドイツ帝国の威信にかけて成功させやう。差し当たり三千人を収容するウーファ・パラストで手を打つてはどうかね?ギャランティーは五万ライヒスマルク(†)。私がマスコミュニケーションの皆様に指令して、伯林だけで千五百紙の新聞に絶賛の批評を書かせやう。どうだね文句あるかね?総統も私もルルの魅力の虜なのだよ。殊にあの怒つた顔…」
 ゲッベルス博士はしばし陶然とした面持ちになつてダラシなく長靴のつま先でマンホールの凹みをいじいじと突付いてゐましたが、ハッと我に帰るとふたゝびキビキビした動作で僕たちをステッキで指差し、
「兎に角さういふことである。ルル嬢に即刻伝へるがよい」
 と云ひ残すと、ナチス式敬礼とBMWの朦々とした排気ガスを残して消へ去りました。僕とパンピネオは街灯の下で躍り上がって喜びました。
「きつとルルも大喜びだよ!」


 III
 黒い蠱惑的なナイトドレスに絹の薄いカーディガンを羽織ってくつろいでゐたルルは、バカラに注いだクリュッグシャンパンを勢いよく僕とパンピネオにぶちまけました。
「あなた達、馬鹿ぢやないかしら?妾がそんな政府御用達の批評を貰つて喜ぶと思つて?伯林のファンの前で歌ふことができれば場末だらうが何処だらうが歌ふし、批評なんかどうでもいいのよ!」
「俺は最初からさう云つたんだよ。雪夫の馬鹿がゲッベルスの云ふことを真に受けて」
「だいたい妾はナチスとごきぶりが大嫌いなのよ!だつて似てゐるぢやない?」
「さうかしら?」
「黒光りしてゐるところとか堅さうなところとか滑らかで…アラいやだわ雪夫さんたら」
「僕なにも云つてません。でも云はれてみると突撃隊に似てゐるなあ。」
僕は床を這つてゐたごきぶりをアイスピックで突き刺して、六本の脚が別々に藻掻いてゐる奴をルルの目の前に突き出しました。
「キャアヽヽヽヽヽヽヽ」
 婦人用のコルトで狙ひもつかず無闇にパンパン撃たれながら僕とパンピネオはホテルを飛び出しました。
「まつたく雪夫は碌なことをしないな」
「あんな虫がゐるんだつたらパンピネオが見つけ次第食つちまへばよかつたのに!」
「あんなものを食つてゐることが知れたらルルがもうキスして呉れないだらうが」
「食べてはゐるんだね?」
「……」
 人通りもまばらな深夜のクールフュアステンダム通りをパンピネオとかつかつ歩いてゐたら、向ふから思ひも寄らずベーちゃん先生こと二村定一さんが歩いてきました。
「えゝゝゝゝ!」
 思はず叫び声をあげると、べーちやん先生も僕たちの前ではたと立ち止まりました。白粉をはたいて真赤に裂けたやうな唇とピエロのやうな眉を黒々描いた容貌は間違いなく二村定一さんです。
「あの、いつたい何時こちらに来たんですか?」
 べーちやんは早口の独逸語で何か云ひました。
「僕ですよ、べーちやん先生に何度も掘られた雪夫ですよ!」
 さう云つてくるりと振り向き、お尻を向けると、べーちやん先生は矢張り独逸語でなにか喚きながら両手を派手に開いて喜び、僕のお尻に頬ずりしました。
「そんな何ヶ月も経つてゐないのに独逸語かぶれになつたんですか?」
 パンピネオが僕の袖を口で引つ張りました。
「これはどうも二村さんぢやなさゝうだぜ。」
「左様。私はフタムラさんぢやありません。しかし少年のお尻は好きです」
「あなたはどなた?」
「この先にあるキット・カット・クラブといふカバレットの司会をしてゐるんですよ」
「カバレットですつて?」
 僕はパンピネオと顔を見合わせました。
 カバレット「キット・カット・クラブ」は人通りのないクーダムの通りとは対照的に、店内に一歩入るとタバコの煙と五色のカクテルとジャズと眩いライトとミラーボールで、宴たけなわでした。さつきのべーちやん紛いが小さなステージの袖から飛び出して、凶暴なまでのユーモアを湛へてジャズシンガーの紹介をしてゐました。ディトリッヒ張りの歌手が歌ひだしたのを尻目に、僕は舞台裏に飛び込んで伯林のべーちやんを捕まへると、懇々とルルを売り込みました。
「さうかい、まアいゝだらう、出演して貰はう。処で斯ういふ好意的な取り決めにはそれなりの見返りも…」
「俺は一足先にルルに知らせに行くぜ。」
 パンピネオがウィンクをしてそゝくさと去りました。僕はその晩、ホテルに返して貰へませんでした。


 IV
 デビューの日になると、ルルはもうそはそはして居てもたつてもゐられない様子でした。
「妾、チャンとできるかしら?お客様は来てゐるんでせうね?伯林まで来て恥はかきたくないわ!」
「この間はどんな場末でも評判が悪くてもいゝと云つたぢやないか」
「雪夫さんは妾を陥れやうとしてるの?デビュー前なんだから高揚させて頂戴!」
「ルル・デビューが終つたら巨きな豹の縫いぐるみでもプレゼントしませう。」
「マア!!」
 ルルは顔色をパッと輝かせ、少女のやうににこにこ笑ひました。パンピネオが拗ねて布団を噛み破り、部屋中をふはふはと羽毛だらけにしました。白い羽毛が夢のやうに舞ふなかでルルはクルクルと回つてみせて、それから練習に余念がありませんでした。
 ミラーボールが弾き返すまばゆい光と迷走する三色の照明を浴びて、例の伯林のべーちやんがギラギラ光る派手な衣装で手を大きくひろげてステージに飛び出しました。彼は思ひ入れたつぷりに顔を作りながら、俗悪と優雅さの入り混じつた魔法のやうな司会をしました。
「伯林のごろつき連中の皆さん、今夜の歌姫はいつものビッチな歌うたひ共とは訳が違ふよ!わざわざ今夜のためにはるばる日本からやつて来た黒髪のルルだ!唄もうたへばピヤノも弾くしトークもやるといふからサア大変だよ!ナチスの殿堂ウーファ・パラストをかなぐり捨ててキット・カット・クラブを選んだといふ可愛いお馬鹿さんに拍手!」
 僕はステージに駆け出すルルに心からのキスを送りました。
 白い小ざつぱりとしたワンピースに控へ目の装身具を着けただけのルルは百人ほどで一杯になるキット・カット・クラブ満載のお客を一瞥して一瞬たじろいだかに見へましたが、伯林でもきはめつけの不良が集まる娯楽場を毒舌で沸かせました。金平糖のやうな粒の立つたタッチでピアノを弾いて自作曲を披露し、軽快なジャズバンドの伴奏に乗つて伯林でも流行つた唄をいくつも歌ひました。ひとつのナンバーが終はる度に怒涛のやうな拍手が天井のシャンデリアを揺るがしました。
「けふはこの唄で最後にするわ!妾は日本に帰るけど、いつでもルルは此処にゐるの。さうして誰もがルルなのよ!」

思い出は遠くあの楽しいときへ
心は愛の歌に満たされながら
歌いあかした

その歌はいま聞こえずとも
メロディーだけはまだ耳に残る
あのときのあのメロディー歌うと
夏はゆくよ いざ楽しんでいま

月の下にて 二人のうたう歌は
短夜に はや聴こえずとも
メロディーだけはまだ耳に残る
(歌の終つた時 "Song of the End")

 キット・カット・クラブのお客はみなシンとして最後の唄を聴き、ワルツ・テンポの伴奏が消えるより前にワッと割れるやうな拍手と賛辞をステージのルルに注ぎ込みました。ホールの遠い柱の蔭でヒトラー総統やゲッベルス博士も感涙を止めやうともせず手を叩いてゐました。伯林のべーちゃんが飛び出して、興奮のあまりスタンドマイクを引き回して叫びました。
「諸君!ルルは今晩、伝説を生みましたぞ。」
 ルルはステージから袖に駆けもどると、感激のあまりふはりとワンピースの裾を広げて僕に飛びつき、両手を握りしめました。
「大成功だわ!今夜は一杯ご馳走して下さらないこと?」
 瞳を大きく潤ませながらさう云つたルルは、いつものルルでは無いやうに思はれました。さうして、この夜の終はらない成功がルルをよりルルにしたのでした。


†) 50000RMは日本円で4〜5万円。現在の約二億円に相当。

「ルル伯林へ行く」(下)

 クールフュアステンダム通りは、四月といふのにまだ分厚い外套を着こむだ紳士淑女でごつたがへしてゐました。空気の澄んだ真青な空に赤と白と黒の鉤十字旗がはらはらとはためいて目にも鮮やかでした。通りの街頭ごとに旗が飾してあつて、赤い波が通りの彼方まで続くさまは、まさに壮観でした。ネオ・ゴチック様式の重厚なカーデーヴェー百貨店の方角からは人いきれの風に乗つてホルスト・ヴェッセルの勇壮な歌が切れ切れに流れてきます。
「どう!独逸つていふ感じがするぢやないこと?」
 ルルはスマアトな飛行服のまゝ伯林の空気を胸いつぱいに吸つて、すつかりはしやいでゐます。僕はそんなことよりも、天王寺動物園チンパンジー、リタ嬢の卵子と僕の精子を持つたまゝ、コンナ人ごみの中にゐて大丈夫なのだらうか?と其のことばかり心配をしてゐました。ルルは僕の胸の内を見透かしてゐたやうに
「雪夫さんは心配性だわ。木は森に隠せつて云ふじやない。クーダムは伯林銀座よ。これだけ人がゐたら妾たちがいくら派手でもゲシュタポにだつて見つけられないわ!」
 と云ひました。
「俺は背中に化け物の素が載つてゐるかと思ふと気持ち悪くて仕様がないよ」
 パンピネオは二種類の試験管の納まつた小さなリュックサックを背中にゆわいつけられて、通りがかる人から独逸語で口々に何か声を掛けられてゐます。
 「この受精卵は何処に持つていくつもりなの?ルル」
「さうねヱ。妾、この灰色の大都市で一はた挙げるんだから飛び切りお似合ひの処に持つて行くわ。ハーゲンベック曲馬団だつたらきつと高価く買つてくれるでせう?妾は曲馬団でパンピネオと慣れ合ひの芸を見せて独逸一の人気者になるのよ!」
 「リタ嬢と僕の子供は?」
 「さうねえ…『親の因果が子に報ひ〜』ていふ熊娘の見世物があつたぢやない?あれをしたらいいワ」
 「それは非道い!」
 そのとき、矢庭に「見つけたぞ!」といふ叫び声が聞こへて、クーダムの道路に似つかはしくない軍用トラックが砂煙をあげて急停止すると、人ごみを蹴散らしてナチスの親衛隊が一ダースほども飛び降りて鉄砲を構へてパンパンと撃ちはじめました。
「貴様達だらう、日本から独逸帝国の科学技術の粋の素を横取りして逃走したのは!さつさと寄越したら平和に解決してやるから投降しなさい」
「もう撃つてるじやないか」
僕たちは泡を食つて逃げ出しました。
「さすがゲシュタポだわ!すぐに見つけたわね。」
「飛行服の美人が虎を連れて歩いてゐたらヘレン・ケラーにだつて見つけられるよ」
ルルと僕はパンピネオの背中に乗つかると、風を切つて伯林の街を疾駆しました。街の風景がまたゝく間に多彩な色の混じつた帯となつて背後に流れていきました。
「なにヨ、伯林伯林した風景が見られないんじやあ浅草でも伯林でも変はらないことよ。」
「そんなら止まるぜ。」
 パンピネオは旋毛を曲げて、朦々たる砂埃をたてながらつんのめるやうに急ブレーキをかけました。盛大な砂埃が薄れると、白熱するサーチライトに照らされて、ギリシャの宮殿のやうな白亜の殿堂が薄暮にまばゆく浮かび上がりました。その城にはまたおびたゞしい青年男女が出入をしてをり、銀色に輝く広い間口の玄関フロアーの上にはデルフィといふ館の名前がアール・デコ調の体裁でかゝげられてありました。
「マア!デルフィよ!妾、いちど此処で踊つたり歌つたりしたかつたのよ!」
 ルルの云ふには、其れはベルリンでも随一の高級なダンスホールで、夜毎、第一流のダンスオーケストラが招かれて演奏し、歌手が歌ひ、それを伴奏にして一晩中踊り狂ふといふ、十二時の来ないシンデレラのお城みたやうな娯楽場なのださうです。其処はまた、シンデレラのお城の王子様が来ても可笑しくないやうな上筋のお客が沢山足を運ぶのださうです。僕たちは一人あたま三ライヒスマルクを支払つてデルフィに闖入しました。分厚いコートの制服に身を包んだ門番が、パンピネオがのつそり這入るのを見てあはてゝ独逸語で「虎を入れられては困る」と難癖をつけてきましたが、二マルク余計に握らせたら其の儘、通らせて呉れました。其のデーニッツといふ名前の門番に更に何マルクか掴ませて耳元に囁くと、デーニッツは電気仕掛のやうに何処かへ走つてゆきました。

 デルフィの広い踊り場では、緩やかなフォックストロットのスウィングに合はせてダンスに興じるカップルが呼吸をするやうに渦巻いてゐました。踊り場を囲んでテエブルが幾つも整然と並んでおり、踊らない客や見るからに爵位ありさうな貴賓は思ひ思ひに飲み食べをしてゐます。さらにその背後には雛壇がしつらへてあつて、ダンスオーケストラが美しいハーモニーを送り出してゐます。
僕たちは手近のテエブルに座ると、ボイを呼んでシャンパンとオードブルの盛り合はせ、「本日のチーズ」を注文しました。其処に僕の命を受けたデーニッツが大袈裟な包を抱へて戻つてきました。シャンパンの到着が待ちきれなくて鴨肉ロースとキャビアの赤ワイン蒸しのオードブルを頬張つてゐるルルが興味深さうに門番の捧げてゐる箱を見つめてゐます。
「ルルは何時まで飛行服みたいな無粋なものを着てゐるんだろう?」
「アラ、だつてズット飛行機を操縦してきたんだし伯林に着いたらクールフュアステンダムを銀ブラする前にゲシュタポに追ひかけられたんじやないの!雪夫さんは頭でも可笑しいんぢやないかしら?殺される処だつたのよ!着替へる暇があつたら欲しいくらいよ!」
「じやあ上げませう。その包を開けて御覧なさい」
 デーニッツ門番から手渡されたマーブル紙の華美な箱を開けたルルは歓声をあげながら、淡い菜の花色に白い襟のついたシンプルなワンピースをつまみあげました。艶やかな絹の長手袋と靴下、二重にして首に掛ける真珠の首飾まで用意が整つてゐるのを見てルルは一瞬、瞳を潤ませましたが直ぐにツンと鼻を尖らせて
「妾には相応なところかしら?此処で着替えろつて云ふんじやないでせうね?」
 と云ふと浮き足立つて更衣室に駆けてゆきました。門番が剽軽な顔をして肩を竦めました。着替へて戻つて来たルルは、春めいたはなやかなワンピースに笑顔を載せて、日本でもこんな上機嫌なルルは見たことがないくらいだと思へる程でした。白いお仕着せのボイが大袈裟なシャンパングラスとシャンパンのボトルを二人がかりで携へてテエブルに来ると、ルルはふたゝび歓声を上げました。
「まあ!夢にまでみたクリュッグだわ!伯林で頂けるとは思つてゐなかった!」
「けふはルルの誕生日でせう?乾杯をしませう」
「乾杯」
 シャンパンを一気に呷つたルルは燥ぎました。
「雪夫さんは妾の欲しいものを見つけ出すことにかけては世界一だわね。…でも妾の服のサイズがよく分かつたわね!」
「簡単。ルルの洋服箪笥のものを自分で着てみたらワンピースでも何んでも…」
 ルルは怒りに着火して二百ライヒスマルクのヴィンテージシャンパンを僕にぶつ掛け、平手打ちを食らはせました。
「妾、踊つてくるわ!えゝ伯林にだつて感じのいゝ男なら幾らでも転がつてゐるんだから!」
パンピネオは平皿にシャンパンを満たして長い舌でピチャピチャと舐めてゐましたが朦朧とした酔眼で騒動を眺めると、酔つた勢ひでハンサムなリキー宮川の姿に戻りました。
「パンピネオがリキーに戻るなんて最近じやあ珍しいじやないか」
「あゝ、今宵はルルと伯林の素晴らしい夜を過ごしたいからな。貴様とではなくてな!」
 パンピネオはルルの顎の下を擽つたりなどして手際よく機嫌を宥めると、ルルの腰をいやらしく抱いて踊りに行きました。ドサリ、といふ音に振り向くと、パンピネオの秘密を目の当たりにした門番のデーニッツが失神して倒れてゐました。
 ルルと踊りにいつたリキーは、しかしすぐに浮かない顔でテエブルに帰つてきました。
「誰だか独逸人の親爺に上手いことやられてルルを取られたよ」
 踊り場をすかし見ると、ちびな僕と大して変はらない中年の小男がルルと楽しさうにワンステップを踊つてゐました。
「誰だい?」
「知らねえ。ルルが他の男と踊つてゐる処なんか見たくもない」
「なにを喋つてゐるか聞き耳を立てに行かう」
「雪夫と踊るのは厭だけどなあ」
 僕はパンピネオのリキーと抱き合つて踊り場にまろび出ました。さり気なくルルのカップルに擦り寄ると、中年男がルルの貝細工のやうな耳朶に囁いてゐる言葉が洩れなく聞へました。
「…だから俺の云ふことを聞いて呉れたら伯林一のマンションを提供しやう。レニ・リーフェンシュタールオリムピックの映画を撮り終はつたら君をヒロインにして独逸一の女優にしてやつてもいゝ。私は美しいものが何よりも好きなのだ」
 男の言葉を聞いたリキーは僕を突き離して、驚くべき力でルルから中年男を引き剥ぐと、胸ぐらを掴むで激しく振り回しました。
「パンピネオ!その人はまづいわ!離してあげて頂戴!」
 ルルが叫びました。しかし時すでに遅く、小男はホールの床に叩きつけられてゐました。僕たちは踊り客たちの注目の的です。小男はよろよろと立ち上がると、ネクタイを締め直して身繕ひをしました。何処からか黒服が滑り出てきて、「ドクトル、お怪我は」と気遣ふと、僕たちの方に向き直りました。さうして憤然として何か云はうとするのを小男が制止して自分で喋り始めました。
「私は美しいものは大好きだが、それ以上に憎い。だから美しいものは手元に置いて私が支配することに決めてゐる。卓越した美人女優のレナーテ・ミュラーをご存知か?あの女も美しかつた。私を罵倒するまでは…マンションから落ちて自殺するまではねえ」
 小男は軽く足を引き摺つてゐました。
「日本でも名前くらいは知つてゐるだらう。私がゲッベルス博士だ。私も君たちを知つてゐる。昼間はクーダムで活躍したさうじやないか。」
 いつの間にか、踊り場の周囲には黒い制服のナチス親衛隊が殺到して、幾つか数へられないくらいの銃口を僕たちに向けてゐました。
「けふは私がお忍びで来てゐたのを感謝するんだね。国際的な問題にはしないでおかうぢやないか。雪夫君と其の化け物には猶太人のお友達を沢山作つてやらう。ルルはお約束通り私が囲つてしあわせにしてやる」
 ルルは口を曲げてゲッベルスの頬を思ひきり引つ叩きました。
「厭だわ!だつて貴方ぢや冗談なんか通じなさゝうじやないの」
「冗談くらい私でも云へるぞ。或るとき、私は森の中の沼で溺れて死にかけた。すると少年が私を引き上げて助けて呉れた。そこで少年に何でもいゝから褒美をやらう、と告げたら、その少年は答へたんだ。『だつたら貴方を助けたことを誰にも云はないでください、皆に恨まれるから』と。ハハハッ」
 周囲の独逸人たちがドッと笑ひました。
「そんなの冗談じやないわ!この鬼畜!人でなし!悪魔!」
 ゲッベルス宣伝相はうつすらと快感を目に浮かべて陶酔しました。
「ありがたう。レナーテも落ちる前にさう云つてゐた。」
 さうして親衛隊の群れに向かつて腕を突き出し、命令しました。
「こいつらをポーランド国境の収容所に放り込め」
 そのとき遅くかのとき早く、近くのテエブルから立ち上がつてゲッベルスの腕を無理やり下げさせた男がゐました。
「けふはやめなさい。折角のルルの誕生日を汚したら私も悲しいぞ」
「総統!」
 親衛隊員の銃口が一斉に天井に向けられ、四方から機敏に腕が突き出されました。ヒトラー総統はゆつくりと僕たちのほうに振り向くと、ルルの頭をくるくると撫でました。
「君の評判なら雪夫君の作文を外務省経由で受け取つてよく承知してゐるよ。けふの誕生日を不愉快にして申し訳ない。」
「総統が仰るなら妾、どうとも思つてゐませんわ」
 さすがのルルもヒトラー総統を前にして緊張してゐます。
「けふは無礼講だから此処でせいぜい遊んでゆきなさい。親衛隊やゲシュタポにはいゝやうに云つておかう。それに例の…雪夫君と猿の…あれも諦めやう。其れがルルへの餞だとしたらルルはがつかりかな?」
「いいへ!総統!」
 ヒトラー総統は満足げに頷くと、手を後ろに組んでゆるやかに歩み去りました。が、二、三歩後戻りすると、ルルの耳に手を当ててこつそり訊きました。其の声は響きのよいホールに谺しましたが。
「…ところで雪夫の精子で猿の卵子が受胎したといふのは本当かね?」
「嘘ですわ総統。そんなこと、ある訳がないぢやないですか!」
 総統をはじめ、ナチスの連中は派手にずつこけました。その派手なアトラクションのやうな滑稽な景色は、或いはルルにとつて一番のプレゼントだつたかもしれません。